食知新ブログ
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BLOGうつわ知新
2021.10.27
伊万里焼と古九谷焼2
9月末~4回ほどは「伊万里焼と古九谷焼」について。今回は、中国から伝わった磁器が、その後伊万里焼として日本に定着し、海外へと輸出されるに至るお話しです。「伊万里焼と古九谷」の物語をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。伊万里焼と九谷焼2~伊万里焼の変遷~先月のお話の中で李参平が1616年頃に伊万里を焼き始めたとお話ししていましたが、それと同じくらい大きな功績と言って差し支えないのが陶石(陶磁器の原材料となる鉱石集合)の発見でしょう。伊万里は日本で最初に焼かれた磁器でありますが、磁器というのは従来まで焼かれていた土ものの陶器とは違い、全く吸水性がなく、白く、そして金属の様に硬い焼物です。その製造に不可欠な陶石を、李参平が有田地区の泉山(いずみやま)から発見したのです。 現在では、泉山の良質な陶石は採取され尽くし、熊本県の天草の陶石が日本の磁器生産に欠かせないものになっています。伊万里が焼き始められる頃の日本では、中国から輸入した磁器が富裕層の間で大ブームとなっており、国内の流通シェアも中国製が独占していました。それに対して駆け出しの伊万里が、いきなり中国製磁器の品質に肩を並べられるはずもありません。初期伊万里は泉山の陶石を粘土に精製する際の技術が低く、不純物を取り除くことができなかったために、景徳鎮から輸入された磁器のような鮮やかな白肌に焼き上げることが出来ませんでした。また、窯の中で歪んでしまうことや、粘土に含まれた鉄分がほくろのように表面に現れることもあり、呉須を安定して青色に発色させることにも苦労していて、焦げ付かせることもあったようです。私の手元にも歪んだ初期伊万里の盃風のうつわが数点ありますが、それは窯の中で変形してしまい、製品として出荷出来なかったために、周辺に打ち捨てられ、後世になって誰かが発掘したものだと思います。きっと同じようなおびただしい数の失敗作が未だに伊万里地区の地中には眠っていることでしょう。このような試行錯誤の時期を過ごしていた、開窯して間もない伊万里ではありましたが、かえって職人たちの情熱が素直にうつわに表現されているのかもしれません。この開窯から1640年頃までに作られたうつわを初期伊万里と呼び、完成度の高い後の伊万里よりもこれらを好む収集家もいるのです。この初期伊万里と呼ばれる製品を生み出していた時代から、さらに発展をとげていく九州の小さな磁器の産地は、欧州やアジアの歴史の大きな流れに乗って脚光を浴び始めます。では、1640年以降の伊万里がどのようにして世界で認められ、どの様な特徴ある焼物に成長して行くのかについてお話させていただきましょう。まず大きな歴史的出来事と言えば、明の滅亡です。本来なら伊万里とその商圏を争うはずだった中国製磁器が1644年を契機に、生産量を激減させていきます。それは日本だけでなく欧州に向けて輸出される製品にも影響を及ぼしていきます。その原因は、この年に漢民族の明(みん)が滅んで、満州族の清(しん)が建国されるからです。明が滅亡に向かう直前は、広がる社会不安の中、中国から陶磁器の技術を持った人々が難を逃れ、伊万里に多く渡ってきたと思われます。このことは朝鮮半島の職人たちがそれまで担ってきた伊万里の指導的な立場を一変させ、中国人による指導体制の導入が行われたと考えられます。1616年の開窯以降、品質向上や安定した製品を供給するまでに、予想以上の時間を要していたことは、伊万里を運営していた鍋島藩の財政に相当な負担になっていました。この極東アジアの政変は伊万里に大きな発展をもたらし、急激な品質の向上をも叶えることになるのです。次に伊万里は、中国磁器の持っていた商圏を獲得して行きます。明が滅亡し、1644年から急激に中国磁器の生産は滞っていきます。その後、清国が建国されますが、磁器の輸出が再開されるまでしばらく時間を要します。その機会をとらえるように、1647年には中国船によって伊万里が輸出され始めたと言われています。つまり、中国の商人らが自国の磁器の生産が滞っていたため、その取り扱いに見切りをつけて伊万里を扱い始めた出来事だったのです。伊万里の陶工たちにとっては中国磁器を収集することに夢中だった日本の数寄者たちに振り向いてもらうため、中国からの渡来技術者の指導の下、日本独自の焼物へと転換を試みていた矢先の出来事でした。伊万里を輸出することなどは思いもしていなかったことだったらしく、中国の交易船に積み込まれた製品は、中国商人の注文品ではなく、日本国内向けに作られた作品の中から選ばれたと考えられています。中国製の磁器の商圏を伊万里がとって代わる第一歩で、思いがけない幸運と言ってよいでしょう。中国船の輸出に遅れること3年、1650年になると、オランダ船によってベトナム地方の東京湾(トンキン湾)へ向けて伊万里の輸出が始まります。これが欧州向けの荷物でなく東南アジア向けの荷物であったのは、中国製磁器の生産が止まっても、しばらくは東インド会社にいくらか磁器の在庫が残っていたからか、ヨーロッパの顧客側に伊万里を求める準備が出来ていなかったからだと言われています。そして1659年になって、ようやくオランダは伊万里をヨーロッパ向けに取り扱うようになっていきます。ここからヨーロッパの顧客の好む形や図柄の開発が急激に進んでいくものと思われます。伊万里焼と古九谷焼3につづく
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BLOG割烹知新〜奇想の一皿〜
2021.10.22
祇園 ろはん「おむらいす」と「トマト出汁の鱧しゃぶ」
祇園 ろはん「おむらいす」と「トマト出汁の鱧しゃぶ」祇園の大和大路沿いにオープンして10年。炊きたての土鍋ごはんを上質なおかずと共に味わう「ワンランク上の定食」が人気を博すも、この春『菊乃井本店』出身の大村大樹さんを料理長に迎え、メニューを一新。土鍋ごはんや人気の炭火焼きを残しながら、季節の料理をアラカルトで楽しむ割烹として新たなスタートを切りました。つやつやのごはんも料理を引き立てるお酒も、どちらも存分に楽しめる貴重な一軒です。発想秘話もともと『祇園 ろはん』は「美味しいお米を味わってもらいたい」という思いからスタートした店です。僕が料理長になってからは、アラカルト中心の割烹へとスタイルを変えましたが、お米へのこだわりは開店当時から一貫しています。しかしそれとは別に、僕自身「日本の米食文化を守っていきたい」という強い思いがあって、お米をテーマにした料理を作ろうと考えました。少し前にこの企画に登場した菊乃井時代の先輩でもある酒井研野さんが「日本で独自の変化を遂げたもの」として「アメリカンドック」をテーマにしていましたが、実はあれが大きなヒントになりました。洋食として親しまれているけれど、西洋発祥の料理ではなく、日本で生まれたお米料理......そう、オムライスです。新しいお米料理を創作するつもりで、奇想の「おむらいす」に挑戦したいと思います。本当はオムライスだけで勝負したかったのですが、もう少し改良の余地があると思っているので、今回は「オムライスと鱧しゃぶのセット」として提案させてもらいます。今後さらにブラッシュアップを重ね、たくさんの人に愛される「おむらいす」に育てていくつもりです。まずは鱧しゃぶ用の出汁を作ります。イメージとしては、南欧などでよく食べられている「白身魚とトマトのスープ」みたいな感じでしょうか。トマトはグルタミン酸が豊富なので、スープの出汁としても優秀なんですよね。次にトマトをフードプロセッサーにかけます。水分が出やすくなるよう少量の塩を加えて撹拌し、スープ状になったものをざるで濾します。強い圧をかけたり、絞ったりするとトマトの赤い色が出てしまうので、一晩かけてゆっくりと抽出し、透明な「クリアウォーター」を取り出します。焼いた鱧の骨を加えた昆布出汁とトマトのクリアウォーターを1:1の割合で合わせ、塩と薄口醤油で味を調えたら、檜製の「湯豆腐桶」へ。この『たる源』さんの桶は普段から湯豆腐や鱧しゃぶに使っているのですが、いこした炭を本体に仕込むことにより、出汁の温度を60~70℃に保つことができる優れものなんです。脂の乗った鱧を骨切りし、一口大に。淡路の鱧は「日本一の鯛」で有名な水口商店さんから、出汁のトマトは上賀茂の農家から直接仕入れたものです。上賀茂には時々足を運んで、野菜のことをいろいろ教えてもらっています。そんな中で新たな食材に出会うことも多いですね。はじめにエリンギを入れ、きのこの出汁がでたところで鱧を泳がせます。だんだんと皮が厚みを増す時期なので、少し長めに10秒くらいしゃぶしゃぶしてください。見たところトマトの影も形もないのに、しっかりとしたトマトの風味が香る出汁......うまみだけでなく、ほどよい酸味もあるトマトなので、ポン酢がなくてもすっきりと召し上がっていただけます。次は主役のオムライスです。最近はいろんなタイプのオムライスを目にしますが、これから作る「おむらいす」の基となるのは、チキンライスを薄焼き玉子でくるんだ昔ながらのタイプ。鶏の炊き込みごはんを出汁たっぷりの玉子で巻き、ケチャップに見立てたトマトのタレを上からかけます。卵は当店自慢の「たまごかけごはん」のために広島から取り寄せているもの。この濃厚な卵で出汁巻き用の卵液を作り、炊き込みごはんを芯にして巻いていきます。出汁をたっぷり含んでいるので、きれいにごはんを巻き込むのに苦労しました。薄焼き玉子で何重にもロールするなど、いろいろ試してみたのですが、やはり出汁巻き玉子ならではの「ほわっ」とした食感にこだわりたくて......。最終的に"柔らかめ"に炊いたごはんで芯を作り、卵と接着しやすくすることで解決したのですが、この部分に関してはもう少し改良したいと思っています。一見すると「鰻巻き」のようですね(笑)。芯にした炊き込みごはんにはきのこと鶏肉が入っています。炊き込みごはんと出汁巻きの組み合わせなので、このままでももちろんおいしいのですが、オムライスっぽさを出すために真っ赤なタレをかけます。このタレにはクリアウォーターを抽出した際に出たトマトの果肉を再利用して使っています。トマトの上澄みにケチャップを足して煮込み、そこにしめじと玉ねぎのペーストを加えて煮詰めていくと、こんな風になります。このタレをかけることで、見た目も味もぐっとオムライスっぽく仕上がりました。今回は試行錯誤の末、こういう形になりました。「おむらいす」とトマトの酸味を生かした「トマト出汁の鱧しゃぶ」のセットです。今後、玉子の巻き方をさらに研究して、最終的には炊きたての熱々ごはんを出汁巻き玉子で巻いてやろうと思っています。修業先の『菊乃井本店』ではお客様と直接お話しする機会が少なかったので、今は目いっぱい「カウンター割烹」の醍醐味を楽しんでいます。いつか自分の店を構える時には、カウンター越しにお客様の反応が見られる割烹を、と思っていますが、目指すのは「なんでもできる店」。修業先で学んだコース料理も、お客様と対話しながら作り上げる割烹料理も、どちらにも対応できる料理人になりたいですね。和食が文化遺産として認められるよう、先頭に立って尽力された『菊乃井』の大将。その方の下で料理を学んだ身としては、僕らの代で日本料理がダメになったと言われるわけにはいきません。和食、そしてお米の文化を次の時代にしっかり手渡せるよう、もっともっと力をつけていきたいと思います。撮影 鈴木誠一 取材・文 鈴木敦子■祇園 ろはん京都市東山区大和大路通四条上ル075-533-766517:00~22:30(L.O.)日曜定休
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BLOG京の会長&社長めし
2021.10.21
株式会社リンクアップの社長が通う店「Sushi and Bar SPOT(スポット)」
■今井 雅敏(いまい まさとし)さん株式会社リンクアップ 代表取締役1966年生まれ1999年に「売れる・流行るスキーム」を考えるコンサルティング会社、リンクアップを設立。商品開発、商業施設開発、ブランドプロデュース等、幅広い分野にて活動を展開する。一年のうち360日は外食。最後の晩餐は、鮭のおにぎり。吟味した素材が自慢の品をリーズナブルに提供。海外VIPにも愛される穴場的寿司店祇園白川から新橋通を東へ進んだ雑居ビル内に、今井さんが接待などにもよく利用するお薦めの店がある。「アメリカで長年腕を振るっていた寿司職人がやっているお店です。とてもセンスのいい握りに付き出し、天ぷらなどがリーズナブルに味わえます。『こんなところにこんな店が?』と驚かれるんですが、東京や大阪などの高級店へ行き慣れている方も気に入ってくださいますね」(今井さん)スナックと見まがうような外観に意表を突かれるが、中は壁に竹をあしらった落ち着いた佇まいの空間だ。ジャズが流れるカウンター8席ほどのこの店を、店主の岡野信治さんが一人で切り盛りしている。店を始めたのは2010年の夏。「初めは外人さん向けにやっていたんですが、原発事故の影響で外国人観光客が全然来なくなって、日本人向けにシフトしたんです」と岡野さん。寿司店らしからぬ店名は、サンディエゴ時代の行きつけのバーからとったものだという。「あかんかったらアメリカへ帰るくらいの気で店を開いたので、看板にもロケーションにも凝ってなくて。店の外観も初め気にしていたんですけど、常連さんは皆知ってはるし、もうええかと思って」お客は企業経営者から芸舞妓、スポーツ関係、芸能関係、外国人などさまざまで、気取らない雰囲気のなか、岡野さんの寿司と軽妙なトークを楽しみに訪れる。「お客様をちゃんとお連れする時、何軒か行く合間にちょっとつまんで一杯飲む時など、いろんなシチュエーションで使い分けています」(今井さん)もとはフレンチの料理人だったという岡野さん。20歳の時、「京都から出たくて」知人を頼ってアメリカへ渡るが、フレンチの需要がなく、和食のレストランに勤めることに。そして、そこから意図せず寿司の世界に入ることになったそうだ。「店のオーナーから寿司職人が休みの日に入ってくれ、と言われてやったのがきっかけです。板前さんは日本から派遣されて来た人ばかり。僕なんか出所が違うから、誰も教えてくれない。仕方なく見よう見まねで覚えていきました。当時、日本はバブルの最中。ニューヨークの街は日本企業から来た日本人が大勢いて、お客さんの9割は日本人でした」と岡野さん。その後、アメリカで寿司ブームが起こり、岡野さんが握る寿司はアメリカ人からも多くの支持を獲得。日本に帰国するまで20数年間、東海岸や西海岸各地の高級店で活躍してきた。実は岡野さんは今井さんの中学・高校の同級生。この店で20数年ぶりに再会したという。「祇園に美味しいお寿司屋さんがあると以前から聞いていて、7年ほど前にお客様に連れて行っていただいたんです。そしたら、岡野くんがいたという(笑)。アメリカに行ったことを聞いてはいたけれど、帰国したことは知らずびっくりしました。僕がアメリカへ出張で行った時、日本人でアメリカ全土のいいお店にスカウトされている人気の寿司職人がいると聞いていたんですが、よもやそれが岡野くんとは思わず、ですね(笑)」(今井さん)メニューは本日のおまかせコース1万円を基本に、寿司やアテを外した3コースが加わる。アメリカで出していたような寿司はあえて入れていないという。「構えの立派な店なら2万円ぐらいはするようなお寿司が出てきて、とにかく安い。時々、本場のキャタピラーロールとかをお願いするんですが、さすがアメリカで一番人気というくらい、とても美味しくてお客様にも大好評でした」(今井さん)「今井社長は天ぷら好きなので、寿司ネタにできる新しいネタを天ぷらにして出したげて、寿司はちょこっと握って。あと巻きもんを食べはります。アボカドとウナギとかのコンビネーションが好きですね」(岡野さん)使用する天然魚は毎日中央市場で、その日のお薦めを吟味して仕入れる。「信頼できる筋から信頼できるものを指定して買っているそうです。お寿司はもちろん煮物、焼き物、揚げ物、何でも美味しい」と今井さん。今井さんお薦めの明石の煮だこは、柔らかく上品な味付け。刺身でも食べられる駿河産のマナガツオは塩焼きに。ふっくらとした旨味を堪能する。パリッと香ばしく仕立てたぐじのから揚げ。どの料理もシンプルな中に魚の美味しさがしっかり。「お寿司は赤身も白身も貝もすごく美味しい。塩加減が繊細だと思います」写真はまぐろのづけ、ヒラメの昆布締め、サバの昆布締め。種類は少なめだが酒は一通り楽しめ、有料でワインの持ち込みも可能。今井さんは、店の魅力は岡野さんの対応力の高さだと話す。「お寿司や料理のクォリティの素晴らしいものを出してくれるのはもちろんですが、それ以上に素晴らしいのが、友達でも、海外のVIPでも、僕の連れてくる人の所作などを見て、その時々に応じた提案をしてくれること。お客様の好みなどを慮る力がプロだなと思いますね。京都の高級料理屋と変わらないぐらいのことをしていただける」そんな今井さんの言葉に、「それを言ってもらえるのは一番うれしいですね。長年カウンターに立ってやっていたら、誰だって楽しくご飯食べてほしいじゃないですか。それが一番です」と岡野さん。誰を連れて行っても、期待に沿った対応力で満足して帰ってもらえるという安心感。今井さんにとって、心地よく、かつ心強い店なのだ。撮影 エディ・オオムラ 文 山本真由美■Sushi and Bar SPOT京都市東山区東大路新橋西入林下町427 東新橋ビル1F075-531-3780営業時間 18時~24時 ※予約が望ましい定休日 日曜、祝日※営業時間は状況により変更の場合あり。お店にお問い合わせください。
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BLOG料理人がオフに通う店
2021.10.18
「京旬いちえ」-「焼肉 文屋」岩村文植さんが通う店
「焼肉 文屋」岩村文植さん(右)梅小路公園の七条通に面した「焼肉 文屋」は2009年11月オープン。実家の料理店の手伝ったことから料理の道を目指した主人の岩村さんは、有名ホテルの名門中国料理店で修業し、四川・北京・香港料理など、中国料理を幅広く習得した。独立を考えた時、まず自分が大好きな料理を提供したいということで、「焼肉店を開きました(笑)」。家族や友人同士、みんなでワイワイとリラックスして旨い肉を楽しんで欲しいと日々、仕入れから調理まで力を尽くしている。気取りがなくて、賑やかな店はいつも笑顔で溢れている。今は新展開として、得意の中華料理の新しいスタイルのレストランの開店を企画進行中だという。「『京旬いちえ』の主人の小谷さんとは、昔の仕事関係で知り合って長い付き合いになります。今では家族同士で互いの店を訪れ合う仲です。よく食材を吟味していて、いつ行っても、何を頼んでも美味しい。肉も魚も野菜もメニューが豊富なので、家族それぞれが好きなものを存分に楽しめます。料理を通じて、いつも旬を感じさせてくれる場所です」「一期一会。人も食材も空間も全て"出会い"があります。一つひとつの出会いを大切にしたいです」と話す「京旬いちえ」の小谷昇平さん。 御所南の閑静な町の一角、ビルの一階の少し奥まったところに静かに佇む和食の店「京旬いちえ」。主人の京都出身の小谷昇平さんは調理師学校を卒後後、和食の道を目指して祇園の割烹で修業した。その後、2003年に独立したが、「最初から広い店は資金的にも難しかったので、料理も楽しめるような小さなバーからスタートしました」。その後、居酒屋、和食店と店舗を広げ、いまは、目指していた和食一本に絞りこんで、日々、和食の世界を研鑽している。 店名は「一期一会」から取ったのだという。「食材との出会い、お客様との出会い、店という空間との出会い。僕の料理を通じて、様々な出会いをつなげていきたい、一期一会の心を一品ひと品の料理に大切に表現していきたいと思っています」 料理への思いは食材のまず、吟味から始まる。たとえば魚介。九州、四国、日本海など各地の、今が一番旬の美味しい魚介類を、馴染みの鮮魚専門店からセレクト。肉類は九州を中心とした黒毛和牛や大分の錦雲豚、丹波あじわい鶏など、肉そのものの風味が濃く旨味豊かなものを厳選。さらに京の露地野菜から、各地の野菜まで、これも今一番旬!という野菜たちをどっさりと仕入れる。品書きにない料理でも、ケースをのぞいて「この食材をこんなふうに食べてみたい」というわがままなリクエストにも応えてくれるそうだ。 カウンター席の前に設えられたガラスケースには、本日の旬菜がずらり。今日は、ぐじ、黒毛和牛、丹波黒豆、賀茂の朝採りトマト、万願寺とうがらしなどが並んでいる。バラエティに富んだ食材を駆使して、品書きは魚介の造りから焼き物や揚げ物の一品、さらに〆の料理まで、見ているだけでワクワクしてきそうな料理名が並ぶ。 しかし、基本はあくまで和。吟味した食材に、丁寧に大切に引いた黄金色の澄んだだしをベースにして、小谷さんがそっと遊び心を添えた料理を提供している。「だしや野菜をふんだんに使って、化学調味料は一切使わず、ポン酢、たれ、ソースにいたるまですべて手作り。素材本来の味を丁寧に引き出しながら、旬を存分に味わっていただきたいと思っています」早速、目移りしそうなほど心惹かれる品書きから、いくつかおすすめを作ってもらった。九条ねぎのシャキシャキ感を残しつつ、丹波しめじ、京のお揚げさんとともにさっと炊いた「九条ねぎと丹波しめじの煮浸し」900円。柚子の香りがほんのりと爽やかさを添える。「賀茂トマト カマンベール 餡かけ」1200円。品書きから想像できない姿で供される人気の一品。 賀茂トマトを丸ごと使って、カマンベールとパルミジャーノの2種のチーズをたっぷりとのせ、銀あんをとろりとかけて、石鍋で焼いた熱々の一品。スプーンでほぐしながら全ての素材を混ぜて、ふうふうといただけば、お腹もじんわりと温まってくる。最初は和の風味を感じつつ、だんだんとイタリアンの美味しさがあらわれ、途中でタバスコをかけると、テイストが進化する...という驚きの一品に小谷さんの創意工夫を感じる。 さらにひと捻りを感じるのが、錦雲豚を使った一皿。野菜ベースの甘味のある醤油だれに錦雲豚をじっくり漬け込んでオーブンでこんがりと焼く。これだけでも十分美味しいのに、さらに、この肉を北京ダックの生地、烤鴨餅(カオヤーピン)に香味野菜やナッツとともに巻いていただく。プロが美味しさを追求するとこういう味にたどり着くのだ...とちょっと感動する。創意工夫に満ちた一皿。「錦雲豚のクレープ包み」(ハーフサイズ)800円は、老若男女に愛される味だ。通常1600円でもう一皿がついてくる。 〆の料理もなかなかの充実ぶりで、中でも特筆すべきは自家製のスパイスカレーだろう。なんとこの店では、昼間はカレー店「ココハイチエ」として、カレーを提供している。ご主人は割烹着からエプロン姿に変わり、これもまた、玉ねぎをじっくりいため、野菜をコトコト煮るところから、オール手作りのスパイスカレーを作る。海老バターカレーやキーマカレーなど4種のカレーから選ぶ「あいがけ」がおすすめだ。カレーあいがけ(2種かけ)1200円〜。写真は海老バターとキーマカレー。海老バターにのっているエビフライのカダイフ衣がパリパリっとした食感。 お気に入りの一品に軽く白ワインを一杯飲んで、あるいは夜カレーを食べに来たり、もちろんコースで存分に味わったり、家族でさまざまな味をシェアしたり...。「お客様には、使い勝手よく、自由に楽しんでいただいています」という主人の言葉どおり、その時々で様々な対応してくれるのが嬉しい。 一見、奥まった場所で入りにくそうに感じるが、中に入れば敷居は高すぎず、和やかな雰囲気の中、芯からリラックスできる。こんな居心地のよい隠れ家こそ、大切な誰かを連れてきたくなる。お酒はワイン、日本酒、焼酎などが揃う。多彩な料理はどんなお酒とのペアリングもできそう。 コロナの自粛期間中、知人の店で握り寿司の勉強をしていたというご主人。和食にカレー、そしてまた新たな世界をその視線は見つめている。いつ訪ねても、「おっ」と唸ってしまうような、ちょっと心憎い美味いものを食べさせてくれる場所。今日はなにかおいしいものを食べたいな、と思った時は、迷わず選びたい一軒だ。昼はカレー店、夜は和食店を切り盛りする小谷さん。料理が好きで好きで、一日中厨房にいても苦にならないという、まさに料理の申し子だ。■「京旬いちえ」京都市中京区夷川通高倉東入百足屋町146-1F075-231-1122営業時間 カレーランチ【ココハイチエ】11:00〜14:00(平日のみ)、ディナー17:30〜23:00(LO 22:00)※現在はコロナ禍にてディナーは休業中定休日・日曜(祝前日は営業)要予約※営業については事前に必ず電話で問い合わせを。撮影/竹中稔彦 取材・文/ 郡 麻江
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BLOG京都美酒知新
2021.09.30
カクテルが飲みたくなる話「モスコミュール」
■西田稔(にしだみのる) 京都木屋町二条「Bar K6」、「cave de K」、「keller」のマスターバーテンダー。2020年開業の「ザ・ホテル青龍 京都清水」内の「Bar K36」を監修。自らもカウンターに立つ。京都生まれ、同志社大学卒業後、東京のバーで経験を積み、1994年に「Bar K6」を開業した。シャンパーニュの将校、グラッパの騎士、クリュッグアンバサダー、ウイスキーコンテスト審査員モスコミュールカクテル言葉「仲直り」世界中で愛されるメジャーカクテルのひとつ「モスコミュール」は、ウォッカベースのロングカクテル。銅製のマグカップで提供するのが、本来のスタイルです。ハリウッドに店を構えていたバーテンダーのジャック・モーガンが考案したと伝わります。別のカクテルをつくるためにジンジャービアを大量に仕入れたけれど思うほど売れず、ウォッカと合わせたところ人気になったそうです。銅製のマグカップに注ぐ案は、同じく銅製カップを仕入れたはいいが、売れずに困っていたジャックの友人の発案によるものでした。「モスコミュール」は「モスクワのラバ」という意味。ラバは後ろ足で蹴り上げる癖があり、そのキック力が相当に強かったことから、パンチが強く後から効いてくるモスクワのお酒(ウォッカ)ということで、この名がつきました。カクテル言葉は「仲直り」。たとえけんかをしていても、一緒に「モスコミュール」を飲めば心地よく酔い、また仲良くなれるのでしょう。よく冷やした銅製マグカップでどうぞ。カクテルレシピグレイグース(ウォッカ) 45mlライム 1/2カット和三盆 1tspジンジャービア 120ml9月のウイスキージャック・ダニエルジャック・ダニエルブラック(old No.7)は、蒸溜したウイスキーを木桶に詰めた楓の木炭で、一滴、一滴チャコールメローイングする、創業以来のテネシー製法でつくられます。バーボンとは別格にランクされる、アメリカを代表するプレミアムウイスキーです。バニラやキャラメルのような香りと、まろやかでバランスのとれた風味が特徴です。棺にジャック・ダニエルを入れたといわれるフランク・シナトラを始め、ジャックファンは熱い!おすすめは、ロング・ジャックコーク。ジャック・ダニエルの甘い香りとコークの甘味、炭酸感が一体となった爽快な味わいです。ジャック・ダニエル蒸留所アメリカ・テネシー州リンチバークに本社を置く蒸留所。社名は創業者ジャック・ダニエルに由来します。ジャック・ダニエル蒸溜所が造り出すテネシーウイスキーの製法は、100年以上経った今も変わりません。時間のかかるチャコールメローイング製法で一滴一滴濾過し、芳醇でまろやかな均整のとれたウイスキーをつくりあげます。アサヒグループHPより■Bar K6京都市中京区木屋町二条東入ル ヴァルズビル2F075-255-5009撮影協力:Bar K36/撮影:ハリー中西
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BLOG京のとろみ
2021.09.30
「ひばなや」のぞうすい
京都市左京区高野にある「ひばなや」は、ふぐ専門店だ。創業は大正8年。京都で最初にふぐ処理の認可を得た店である。京都市内の中心地からは離れた地域にあるが全国のふぐファンに愛されている。夏場の営業はなく、5月末から9月末までは休業される。私がふぐ屋に行く目的はてっさと焼きふぐとひれ酒である。ぶつや唐揚げも欲しい。が、てっちりは無くてもいい。いや、ほんとは要らない。しかし、ぞうすいは絶対食べたい!なので、ぞうすいをいただきたいために仕方なくてっちりを注文する。鍋を囲んでる仲間が食べてるのを見ているだけでもいい(笑)鍋物の〆のぞうすいはだいたい美味しいけど私はふぐのぞうすいが一番好きだ。ふぐの皮から溶け出したゼラチン質が絶妙なとろみとなる。このとろみと溶き卵が絡んで最高のぞうすいになる。ぞうすいを食べるためのてっちりなのだ。昭和20年代、ふぐ毒が恐れられていた当時の「ひばなや」のキャッチフレーズは「くちびるがしびれたら百万円」だった。
ハリー中西
料理カメラマン
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BLOGうつわ知新
2021.09.30
伊万里焼と古九谷焼
9月末~4回ほどは「伊万里焼と古九谷焼」について。伊万里焼は、なぜ料理屋では使われることが少ないのか。これまで石川県の焼き物と思われていた古九谷焼が実は伊万里焼だった。など、目からウロコのお話しです。「伊万里焼と古九谷」の物語をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。伊万里焼と九谷焼私は30歳になる直前に結婚をし、少しずつ妻の家の家業だった骨董商の仕事をし始めました。当時はバブルの絶頂期へ向かう時代だったので、数ヶ月前のオークションで購入した品物が、今日のオークションでそれよりも数十万円高い値段で売れた。陶芸家に注文していた茶碗が右から左へ転売するだけで利益が出た。今から思うとなんと安易に商売が成り立つ時代だったことでしょう。 当時、妻の父親によって運営されていたこの店は多くの伊万里を取り扱っていました。外から見れば伊万里屋さんに見えるくらいだったかもしれません。ある時、店主の義父から、幾人も料理屋人の知り合いがいた私に、伊万里を積極的に営業するようにと指示が出ます。私は言葉通りに営業をかけてみたのですが、なぜか良い反応がありません。自分の売り方が悪いのかと悩んでいた当時、現在は東京のミシュラン二つ星を獲得されている有名店のご主人から、「懐石に伊万里は使えない。」と、耳を疑う言葉を聞かされました。そのご主人は私から、初代須田菁華や永楽家の作品をよく買ってくださっていました。 その後、この経験から料理人の方が好みそうな伊万里以外のうつわを多く扱うように心がけ、現在のように広く料理店にうつわを納めさせていただくようになったのです。今になって考えれば、当時伊万里を買ってくださっていたのは、羽振りの良かった主婦層が中心で、料理人さんたちではなかったかもしれません。 やがてバブルが崩壊し骨董市場に価格変動の嵐が吹き始めます。当然、伊万里も大きく値崩れしました。以前からの在庫品は大幅に売値を下げなければ、近い将来お客様から見向きされなくなるのは明らかでした。そんな経済の急速な下降局面で、私は店の経営を引き継ぎ店主になりました。直後は大量の伊万里の在庫を見て、それを売り切るのに要する年月を思って頭を抱えたものです。 この先も伊万里の市場価格は更に冷え込むであろうこと、料理人が根本的に伊万里を欲していないことから、私は損を覚悟で、あちこちのオークションで伊万里を投げ売りする戦略にでました。その行動を見た妻は、私の経営感覚に不安を覚えたようでした。しかし、ここで出た損害は、今後の売り買いを繰り返す中で挽回出来ると信じて、私はひたすら売り続けることにしました。同時に、売却して手にした資金で、まずは料理人さんたちの好む、永楽家や楽家のうつわへの買い替えを進めて行きました。 伊万里と有名作家の懐石のうつわには大きな価格差があったため、小銭をかき集めて千円札1枚と交換するような感覚でした。伊万里はバラ売りするのが店頭での基本でしたが、それに対して、作者の共箱が添っていることで価値が高まる懐石のうつわは、5客や10客単位の共箱に入った組売りが当たり前になります。その組売りによって、バラ売りするより価格が高くなりますから、売れる機会が減りはしないかと不安に思ったものでした。 ちょうどその頃、京都のいくつかの名店にもお出入りさせていただけるようになり、うつわだけでなく料理の世界についても学ばせていただく機会を得てきました。販路も広がったおかげで、伊万里から取り扱いを乗り換えた懐石のうつわも順調に売れるようになったのです。 さて「伊万里は懐石に向かない。」と言われたことがあると書きましたが、その他にも伊万里のコレクターの方に「伊万里を使うと料理がどこか民芸風に感じられるようになる。」と言われたこともあります。皆さんはそのようにお感じになった経験がおありでしょうか。 日本に一番多く存在するうつわは伊万里だろうと私は思っています。にもかかわらず料理屋さんで懐石料理をいただくときも、懐石料理の本を読んでみても、伊万里はほとんど使われていません。不思議だと思ったことはありませんか。そのあたりをお話してみようと思いますが、その前に伊万里と古九谷は何なのかをお話しなければなりません。 伊万里は1620年に生産を始めたと言われて来ましたが、最近では少し早くなって1614~1616年頃だと言われています。豊臣秀吉の朝鮮出兵時に、鍋島藩によって召し抱えられた半島出身の陶工、李参平(りさんぺい/金ヶ江三兵衛)の手によって有田で焼き始められたとされています。とはいっても、いきなり完成度の高い伊万里焼が世に送り出されたはずがありません。まだこの頃は、唐津焼の窯と同じ窯で焼成されていて、くすんだ灰色無地や、単純な絵付けの染付の磁器を焼きながらの試行錯誤が続きます。このように唐津焼同様に朝鮮半島の技術を用いて始まった日本初の磁器の製造は、いまとなってはその未熟さが味わい深いと評価され人気がありますが、窯の中での灰などフリモノを被った景色や素地や染付の不安定さから、中国の景徳鎮から輸入されていた古染付に競合する相手と呼ぶには程遠い存在でした。また、事業としても採算が合っていなかったと考えられます。 1637年に鍋島藩は生産体制の見直しを行い、その甲斐あって、それ以降の品質に向上が見られるようになります。これは恐らく、滅亡寸前であった中国の明朝から景徳鎮の技術者が流入したことで中国人の技術指導が入ったこともあったと思われます。また直後の1640年頃からは、広い販路を獲得していきますが、これは明朝から清朝の移行する動乱期にあって、陶磁器の一大生産地の景徳鎮の生産が途絶え始め、陶磁器という重要な交易品の新たな生産地を西洋諸国が探し求め、伊万里にたどり着きます。このような複数の要因の重なりが、伊万里に急速な発展をもたらしたのだと考えられます。だいたいこの変化が起こった1640年以前の伊万里を初期伊万里と呼んで分類しています。 このような技術革新などの変遷を経て、1640年頃に登場するのが古九谷なのです。多くの読者が、この伊万里の話の中でどうして石川県で焼かれた古九谷が登場するのかと疑問に思われるかもしれません。そうです。最近まで古九谷は石川県加賀地方の焼物とされていたのですからね。 戦後間もなく、古九谷は有田地方で製造されたのではないかという説が提唱され、論争が起こります。それは、江戸時代に欧州に輸出された伊万里の里帰りが始まったことによります。里帰り品の古九谷と、間違いなく有田で製造された初期柿右衛門との共通点に注目が集まったのです。 また昭和31年にロンドンで開催された「日本陶磁器展」で発行された図録に、日本では古九谷に分類されている焼物と酷似した作品が、伊万里として輸出され、1671年製の銀の蓋が添えられていたため、古九谷は伊万里に分類すべきではないかと掲載されたのです。 最近の平成22年の国会で、国立博物館で古九谷が伊万里古九谷様式と曖昧な表記がされていること、また東京国立博物館所蔵の重要文化財に指定されている古九谷の大皿が、長年展示されないでいることについての質問が行われました。 しかし、弊店もそうですが、古美術商には関東や関西を問わず北陸方面に縁のある店が多いのです。自らの文化を否定されたような思いがあったのでしょうか、古九谷伊万里説には拒否反応を示す方は実にたくさんいたと思いますし、いまでも根強く残っているでしょう。私もこの話をしている最中に、叱られた記憶が幾度かあります。 しかし古九谷について、発掘調査が行われた結果、伊万里で生産されていたことがほぼ確定的となっています。焼物の名称も古九谷の名前は残したままの、伊万里古九谷様式と曖昧な表記することが展覧会の暗黙の了解になってしまいました。発掘調査の結果石川県の窯跡からは色絵の破片も見つかったようではありましたが、古九谷と呼ばれる様式とは少し異なるものだったそうです。しかし長年古九谷が石川県産だと思われてきた根拠も未だに明らかにされていません。さらに、古九谷が製造されなくなってから約150年後に生産された、吉田屋窯を始めとする再興九谷は古九谷が石川県加賀地方で作られたことを疑うことなく生産されたのは何故でしょうか。多くの謎は解明されず、玉虫色の答えのまま、一応古九谷は伊万里に属することになっているのです。伊万里焼と古九谷焼2へつづく
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BLOG割烹知新〜奇想の一皿〜
2021.09.24
割烹しなとみ「京鴨の煮込みハンバーグ」
割烹しなとみ「京鴨の煮込みハンバーグ」洋食レストランでのアルバイトをきっかけに、大学卒業後、飲食業界へ。当初は洋食のコックを志すも、和食部門に配属され方向転換。以来、さまざまな業態の店で経験を積んだ高橋さんが、独立にあたって選んだのは「その日の気分で自由に楽しめる」割烹スタイルでした。魅力的な一品がずらりと並んだ品書きからは「好きなものをぶわーっと頼んで食べるのが好きなんです」という健啖家ぶりが伝わってくるよう。「今日は何かとびきりおいしいものが食べたい!」そんな期待に全力で応えてくれる、頼もしい一軒です。発想秘話和洋折衷的なものは普段ほとんどやらないので、何を作ればいいのかとても悩みました。その突破口になったのが、妻の「あなたの一番好きなものを作ったら?」というアドバイスでした。僕はグラタンやエビフライなどの洋食に目がないのですが、なかでもとりわけ好きなのがハンバーグ。それならと、いつも店で使っている京鴨を用いてハンバーグを作ることにしました。ただ、鴨のハンバーグって一歩間違うと「鴨のつくね」になりかねないんですよ。今回はハンバーグを焼いた後、さらに昆布出汁で煮込むのですが、いわゆる「鴨のつみれ鍋」にならないよう苦心しました(笑)。それでは作っていきましょう。海外でハンバーグといえば「バーガーのパティ」としてバンズに挟むのが一般的で、それ単体で食べるものではありません。つなぎを加え、調味したパティを「ハンバーグステーキ」として楽しむのは、日本独自の食べ方ですよね。僕の好きなハンバーグは、もちろん後者のスタイル。レストランだけでなく、日本中の家庭で作られている"あの"ハンバーグです。ですからたねにはつなぎとして棒麩、レンコン、豆乳などが入ります。鴨ロース用に仕入れている京鴨をミンチに。京鴨は香りがさほど強くないため、肉の臭みを和らげるスパイスなどがいりません。また、あとで昆布出汁と合わせたときも、昆布と鴨の香りが喧嘩しないんです。量はさほど多くないものの、京鴨の脂は粘り気がすごく強いので、念入りに叩いてなめらかに仕上げます。パン粉代わりの棒麩、ハンバーグをふっくらさせてくれるすりおろしレンコン、豆乳、卵、レンジで加熱し臭みを取った白ねぎのみじんを加え、ハンバーグのたねを作ります。ここで隠し味に「昆布粉」を加えると、味がバシッと決まるんですよ。たねを楕円に成形します。食材や調理法の組み合わせ、盛り付けなど、いろんな要素を掛け合わせてひとつの料理を作り上げる......そこが日本料理の奥深いところじゃないでしょうか。フライパンで肉の両面にきれいな焦げ目を付けます。このあと昆布出汁で煮込むので、中心部がほんのり温かくなる程度で構いません。下御霊神社の湧き水に昆布と少量の酒を入れて火にかけ、焼き目を付けたハンバーグを入れます。この昆布出汁はそのままお椀の汁になるので、丁寧にあくを取りながらしばらく炊きます。味付けは伊豆大島の海水塩のみ。この水ですか? 祇園の割烹で修業していた頃から使っています。普通の水と違い、これで出汁をひくと「まあるい味」になるんですよ。炊き過ぎると肉の臭みが出てくるので、15~20分くらいで火を止めます。汁と一緒にハンバーグを椀に盛り、軽く蒸したトマトとクレソン、生胡椒の塩漬けを散らして完成です。トッピングのトマトとクレソンは「ハンバーグプレート」をイメージして選びましたが、出汁にトマトの軽い酸味や甘みが加わり、すっきりとした味に仕上がりました。いかがですか。お出汁がまるで洋風のスープみたいでしょう? いろんなうまみが入った力強い出汁に対し、椀だねのハンバーグは鴨の風味が感じられるくらいの優しい味にしています。出汁と椀だねのバランス、掛け合わせの妙を楽しんでもらえるとうれしいですね。旬の食材をその時の気分で調理して...ということをずっとやってきたので、コースのみのスタイルは最初から頭にありませんでした。例えばお造りとお酒だけでサッと帰らはってもいいし、「今日はお酒飲めへん日やから」と焼き魚にごはんと赤だしをつけた「おうちごはん」も大歓迎。要は気張らず、"いいように使(つ)こてもらえる店"でありたいと思っているんです。「割烹の灯を絶やしたくない」と言ったら少し大げさですが、割烹文化を次の世代に伝えたいという思いもあります。「これ」といった決まりがないのが割烹料理屋の醍醐味。お客さんと対話しながら、一緒にいい時間を作っていけたら......。小さな店だからできることも多いですし、リクエストに応えることで僕自身の勉強にもなります。お客さんも僕たちも、ともに高め合い、楽しめる店にしていきたいですね。撮影 鈴木誠一 取材・文 鈴木敦子■割烹しなとみ京都市上京区信富町315-4075-366-473617:00~22:00木曜休
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