うつわ知新
うつわと料理は無二の親友のよう。いままでも、そしてこれからも。新しく始まるこのコンテンツでは、うつわと季節との関りやうつわの種類・特徴、色柄についてなどを、「梶古美術」の梶高明さんにレクチャーしていただきます。
-
BLOGうつわ知新
2022.03.31
伊万里焼と古九谷焼7
7回目となる最終回は、柿右衛門様式と鍋島様式について解説いただきます。「伊万里焼と古九谷焼」の物語をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。伊万里焼と古九谷焼7さて、前回は古九谷が辿った顛末についてお話しましたので、今月は、柿右衛門と鍋島についてお話したいと思います。まずは柿右衛門からお話しを始めましょう。 古九谷様式の後、1670年代に確立したのが柿右衛門様式です。柿右衛門様式とは、古九谷様式で培った技術を基に、特に西欧への輸出を意識して製作に力を入れた、極上の焼物です。 柿右衛門様式が西洋への販売に漕ぎ出した原因は、1644年の明国の滅亡にあります。 明国の滅亡後、満州族が清国を建国し、国の監督下で統制できなくなっていた中国陶磁器の生産・輸出を停止させる政策がとられます。するとその代わりの需要に応えるため、伊万里が世界中から注目されるようになるのです。 伊万里は日本国内においても中国陶磁器の代替役として注目されながら、さらに日本人好みの意匠を追い求めた結果、古九谷様式を発展させたわけですが、市場規模を世界に広げた結果、さらに繊細で高級感漂う柿右衛門様式の焼物を誕生させることになったのです。 1650年から伊万里との取引を始めたオランダは、従来の中国製陶磁器をはるかに超える、品格ある柿右衛門様式の登場に驚いたことでしょう。高い意匠、余白を生かした上品な構図、そして柿右衛門最大の魅力と言ってよい「濁し手」と呼ばれる際立った乳白色の素地は、17世紀後半に欧州で大流行したシノワズリと呼ばれる東洋趣味の大流行の中、欧州の貴族たちをその虜にします。 当時、磁器を焼く技術のなかった欧州の貴族たちは、柿右衛門を争って買い求めると同時に、その白い黄金とも言える宝を、自らの手で生産しようと財力を注ぎ込むのです。そうしてついに1710年にマイセンが磁器の焼成に成功し、やがてマイセンで柿右衛門の写しが盛んに焼かれるようになっていきます。 しかし、それより早く中国の清朝は1684年に陶磁器の輸出を再開し、価格や生産量で勝る中国製陶磁器は瞬く間に柿右衛門の市場を奪い始めるのです。 そうして、販路の軸足を輸出に置いていた柿右衛門の絶頂期は終わりを迎えます。やがて柿右衛門様式は姿を消してしまうのですが、その時期を明確に記した資料はなく、曖昧に「江戸後期」として語られているようです。しかし、残されている作品の数の少なさから考えると、もっと早期に生産は止めっていたように私は感じています。【藍柿右衛門手 裏表】 今回残念ながら、象徴的な柿右衛門である濁手(にごしで)を所有していないためご紹介が出来ません。柿右衛門様式には濁手(にごしで)・錦手(にしきで)・藍柿右衛門(あいかきえもん)があり、濁手は透明感のない柔らかな乳白色をした色絵磁器です。 錦手も藍柿右衛門は厳選された白い胎土が用いられ、やや青味がかった透明釉が掛けられた磁器です。錦手は濁手同様の色絵磁器で、藍柿右衛門は染付磁器です。染付磁器しか生産していなかった伊万里に赤い色をもたらしたのが初代柿右衛門だとも言われ、この赤い色を引き立たせるために、白い胎土や美しい釉薬の研究が進んだのだと思われます。 それ故、写真の染付は藍の発色も美しく、その濃淡だけで豊かな表現を実現させています。高台内に残ったトチン跡も極めて小さくし、目立たないよう配慮がされています。また現代の柿右衛門にも記されている「渦福(うずふく)」が残されています。ただしこの「渦福」柿右衛門だけの窯印だと言うことは出来ませんので、ご注意ください。 ともかく、この美しい肌合いから、柿右衛門様式や鍋島様式が細心の注意を払って焼かれたかを窺い知ることが出来ます。 先の柿右衛門様式とは逆に、伊万里の窯を運営する鍋島藩が、国内向け献上品として、特に徳川将軍家を意識した極上の焼物として誕生させたのが、鍋島様式です。極上の焼物を生産するために近辺から特に腕の立つ職人を集めて、技術が漏洩しないように厳格に管理して完成させた焼物は、元禄年間(1688年~1704年)にその絶頂期を迎えましたが、その栄華は長くは続かなかったようです。 鍋島焼の特徴としては、柿右衛門に見られた「濁し手」の白とは異なり、ほんのり青味がかった地肌、そして櫛目模様の施された高い高台などが挙げられるでしょう。染付の絵付けに加え、赤・青・緑の上釉で精緻な模様に仕上げられた色鍋島を主力に、青みがかった地肌や、くし高台、裏文様に特徴があります。また、染付の濃淡だけを駆使して、かくも美しい焼物が作れるのかというほどの藍鍋島や、他の青磁とは一括りにしたくないほど澄んだ青翠色の鍋島青磁があります。 これほどの焼物を生み出しておきながらも、絶頂期が短く生産量が少なかった理由は何だったのでしょうか。それは芸術的な焼物を誕生させた成功とは裏腹の経営的な失敗だったのではないかと私は考えています。 販売でなく、献上することを目的として、上質な品を少量生産していたのでは運営は当然厳しくなるでしょう。逆に大量に生産したのでは献上品としての希少性を失ってしまうジレンマがあったのでしょう。 鍋島様式は一旦活動を停止し、1700年代の後半になってまた少し生産を再開するものの、初期のような緊張感のある作品ではなくなってしまいました。初期のものは現存数も限られていて、現代においても大変高価な焼物です。 私は柿右衛門様式と鍋島様式の衰退理由を歌謡曲の世界と同じだと思います。歌唱力の高い歌手が一番の売れっ子になるのではなく、むしろ歌唱力と個性が絶妙に折り合った歌手に人気が集まる。乱れなく美しい焼物が一番に好まれるとは限らないのですね。【伊万里八角大鉢】 古伊万里様式のうつわをお見せしたかったのですが、これも元禄年間(1688年~1704年)を中心に焼かれた、絶頂期の品質の伊万里を指すため、気安く手に入れることが出来ません。写真の大鉢は半世紀近く後の時代の伊万里ですが、町人の富裕層が客をもてなすため用いた、目出度い意匠や豪華さを引き継いだ風情が古伊万里様式に似ていたので、参考までにご紹介しました。 祝いの宴のために注文されたようなおめでた尽くしの意匠に金彩を施し、裏面にも花の絵を描き、高台内も小さく目立たないサイズのトチンを使って上手のうつわであることが窺えます。サイズも数物としては大変希少な一尺弱(約30㎝)の大鉢です。 戦に明け暮れた戦国の世から、江戸時代の太平の世を迎え、文化芸術への関心が高まり、その円熟期とも言われる元禄年間へと時代は向かって行きます。 伊万里も発展し、主に輸出を目指した柿右衛門様式、将軍家や諸侯への献上品としてのこだわりを見せた鍋島様式、そして、富裕町人層向けの艶やかさを追求した古伊万里様式と言うように、顧客に合わせた製品の展開を行いながら、最高品質の伊万里が焼かれたとされる元禄年間を迎えるのです。 ところが、絶頂の陰では、欧州でのマイセン窯の始動や、清朝陶磁器の躍進が始まり、伊万里を取り巻く環境は決して長く安泰していたとは言えなかったようです。福岡の黒田藩の御用商人の伊藤小左衛門の記録によれば、元禄期には伊万里の海外への貿易は減少に転じ、国内の販売先を開拓して全国に伊万里を販売するようになったとあります。 そうは言っても、国内において徳川幕府の財政は開幕以来、常に倹約令を出すほどで、江戸時代を通して決して経済的な余裕はありませんでした。それでも元禄年間に文化芸術の花が咲くような経済的なバブル期が発生したのは、貨幣の改鋳によるものと考えられます。金の含有率を下げた貨幣鋳造を行い、貨幣の流通量を増やすことで景気を刺激する政策が功を奏したわけです。一時的に紙幣を刷りまくって景気回復を狙うようなものですね。 そんなバブル景気の恩恵もあって、元禄期の富裕町人層に向けて生産された古伊万里様式も頂点を極めた後、他の様式同様にその品質に陰りが見え始めます。しかし、陰りと言っても伊万里の商業的な価値が無くなってしまったわけではなく、販売戦略が変わっていったと言う方が良いかもしれません。具体的には、権力者や数寄者たちの厳しい注文に応える富裕層を相手にする路線から、一般大衆にも受け入れられる商品展開へ移行したと言うことです。 それは、顧客の個別の要望に応えて生産するオーダーメイド方式ではなく、伊万里の生産者側で企画したうつわの見本や見本帳の中から選んでもらうカタログ販売的な商法への転換があったようなのです。現代では当たり前の販売方法ですが、当時としては、顧客は楽に注文でき、生産者は同一の定番商品を大量に生産して効率よく販売できる画期的な販売スタイルだったことでしょう。 つまり「安かろう、悪かろう」とか「安物買いの銭失い」などと言って粗悪品を生産して儲けようとしたのではなく、受注と生産現場の効率化を図ることで産業としての拡大を図ったのが元禄時代以降の伊万里なのです。 しかしそれは、茶道具やうつわをこの世に唯一のものとして愛蔵してきた数寄者や茶人の考え方とは真逆の方向でした。このことが、伊万里が茶の湯では使われなくなった決定的な原因だと考えています。伊万里は茶の湯に用いる懐石のうつわではなく、宴を伴う会席のうつわになっていったのです。【量産された伊万里】 元禄期以降の伊万里は、受注・生産・運搬のどの面においても、よほど効率化された体制を築いたのでしょう。驚くほど多種多様のうつわを全国に販売しています。ただ上の蓋茶碗の写真に見られるように、サイズや形状は同じで、絵付けだけを変化させているような、よく考えた効率化をしているようです。 積み上げてきた伊万里の高い品質や芸術性より、生産性や経営的な成功に重きを置いた方向への転換を残念に思う方も多くおられることでしょうが、1835年の記録では、伊万里港からの出荷数は、焼物を俵に梱包した状態で、年間31万俵が出荷された記録が残されています。仮に一俵に100客のうつわが入っていたとしたら、3100万客の伊万里が出荷されたことになります。 つまり商売の方針を変更することにより、膨大な注文を獲得して、日本で最も多く存在する焼物として伊万里の地位を築いたのかもしれません。これを成功と言わずしてなんと言えばよいのでしょう。 以前、英国から来られたお客様をお相手したときに「日本に来てまで伊万里を買う必要はないから、他の美術品を紹介してください」と言われたことがあります。それくらい世界の美術愛好家たちにも「IMARI」の名は広く知られていますし、欧州でも容易に目にすることができるうつわだと言うことなのです。 現在でも伊万里は生産された地区によって有田焼・三河内焼・波佐美焼と呼び名を変えて存続し、国内だけでなく海外へも広く輸出されています。 私は以前まで、1700年前後の元禄時代を中心に栄華を誇った伊万里焼とその文化は、その後すっかり大衆化し、衰退してしまったイメージを持っていました。でもそれは誤解で、伊万里は茶の湯以外の部分で日本人に高いうつわ文化をもたらし、その生産・運搬・販売など様々な関りを持った人々を400年に渡って養ってきたのです。これは窯業界で世界一の偉業と言ってもよいのではないでしょうか。 400年に亘って作り続けられた新旧の伊万里が、いまも世界のどこかで取引され、美術業界や食文化を支えているのです。それって、すごい驚きだと思いませんか。 2019年の秋からこのうつわ知新の連載を始め、ちょうど2年半が過ぎました。易しく読みやすい内容を心がけながらも、同時に知っている情報は出来るだけ出し惜しみせずお話したいと言う気持ちも抑えきれず、気楽な読物とは正反対の内容になってしまいました。いまさらながら、反省しなければならないと思っています。 ところが、最近ネットを使って調べごとをしていると、かなり頻繁に私が書き残した文章に出くわすようになってきました。同じように、きっと多くの方も私の記事を目にして、日々いくらかずつでも人々の参考になっているかも知れないと感じています。 確かに私の店を訪れる人々から、「記事を読んで訪ねて来ました」と言う声を聞くようにもなりました。 2年半ではありましたが、投稿した記事はいまの私の知識をもって、しっかり書ききっています。 それでも、まだまだと先輩諸氏からはお叱りをうけるかも知れませんが、うつわについての知識が必要なとき、さらに深く確かなご要望にお応えできるようこの後も精進してまいります。 お読みいただきました皆様に感謝申し上げます。2022年初春 梶 古美術梶 高明
-
BLOGうつわ知新
2022.02.26
伊万里焼と古九谷焼6
「伊万里焼と古九谷焼」について深く詳しく。6回目は、伊万里焼と茶の湯、古九谷のその後について解説いただきます。「伊万里焼と古九谷」の物語をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。伊万里焼と古九谷焼6 先月お話いたしました内容から、伊万里焼と呼ばれる名称の中には、古伊万里だけでなく古九谷も柿右衛門も鍋島も含まれていることが、おわかりいただけたことでしょう。大雑把な話ですが、ともかく江戸時代に、肥前一帯の焼物が伊万里港に集められて出荷されたことで、様々な様式の焼物をひとまとめにして伊万里と呼んだのです。 ではなぜ、現代の焼物に伊万里焼の名前を使わなくなったのでしょうか。いいえ、使わなくなったわけではありません。いまでも伊万里市で焼かれたものは伊万里焼と呼ぶのですが、いまとなっては肥前全体の焼物の総称ではないのです。 明治になって鉄道が開通したことで、焼物は伊万里港から船に積んでの出荷ではなく、鉄道輸送が主流になりました。そのことで、焼物は最寄りの出荷駅の名前で呼び分けられるようになり、有田焼・三河内(みかわち)焼・波佐美(はさみ)焼などは伊万里の名前から分類変更された名称なのです。現代では単純に伊万里焼と呼ぶと、骨董の焼物を示す名称になってしまった感じです。 私ども古美術商は、店舗にある商品を販売するだけではなく、お客様がご自宅を整理される場合などに、ご所蔵の品々を買わせていただくこともございます。 伊万里などのうつわは20客ずつの単位で木箱に入って、また塗りの椀類や足付膳もやはり20客単位で蔵から出てきます。【木箱のしつらえの違い】左が伊万里の入った木箱です。頑丈な樅箱(もみばこ)に20客まとまって入れられて、墨でうつわの名前が直書きされています。右は景徳鎮で焼かれた古染付の半開扇向付です。このような茶懐石の道具は5客か10客単位で箱に収められています。この写真では特注の桐の段箱(段で区切られた箱)に5客の向付が入り、それぞれ木綿の袋に入れられ、特別に丁重に扱われてきたことが窺えます。うつわの名称を異なる筆跡で記した貼紙(はりし)が2枚貼られているので、これまでにふたり以上の所有者を経て来たことが窺えます。ふたつの箱には木材の質による差別や箱の造りへのこだわりだけでなく、箱の汚れ方から見ても扱われ方に差があったことがわかりますね。 一方、茶道具や茶懐石の道具は蔵ではなく、本宅の座敷や茶室近辺の、お客様により身近な場所に置かれていることが多く、伊万里より格上の扱いを受けています。茶懐石の向付や椀類は、伊万里の20客単位とは異なり、5客か10客単位で箱に収められています。古染付菊菓子鉢 この古染付の鉢の箱には、「これと同手の鉢が三井家に所蔵されている。その箱には表千家7世如心斎が箱書をしている。」と、表千家11世碌々斎が書き記しています。またこの鉢は、大正7年の紀州の某家の売り立てに出品され、その後昭和7年の関西財界の数寄者、原尚庵によって再び売りに出されたときの資料が添えられています。茶道具は現在に至るまでの、来歴(伝来とも)を伝えようとする姿勢が明確です。これは伊万里には見られないことです。 現代では一席に多くの人数が集う大寄せの茶会が主流になりましたが、それでも私が参加した茶席に伊万里が登場した事はありません。20人が一堂に会する宴会に近い茶席でも伊万里を見かけないのは、伊万里が数物として粗雑な扱いを受けているということではなく、茶陶のうつわと伊万里とは歴史や文化中で住み分けがされてきているからだと思います。 伊万里が日本で最も量産された焼物でありながら、茶陶の焼物でなかったことは皆さん自身がお解かりのはずです。皆さんの中に江戸時代の伊万里製の茶道具を所有されている方がおいでになるでしょうか?あるいはそれを茶席の中でご覧になったことがあるでしょうか?きっとほとんどないことでしょう。私は水指を一点だけ所有し、かつ、二点を美術館で見たことがあるに過ぎません。 茶人の好みに近いと思われる古九谷様式の中にさえ、茶碗や水指を見い出すことが出来ないのです。さらに言えば、伊万里には「向付(むこうづけ)」と言う名のうつわがありません。代わりに「向付」的なうつわは「膾皿(なますざら)」と呼ぶのです。古い木箱にもいつも墨で「膾皿」と記されています。呼び名においてまでも茶の湯のうつわと区別されているのです。昔は、生では魚の鮮度が保たれず、酢でしめて提供したことから膾(なます)という呼び名が生まれたようですが、これを向付と呼んだところで特に問題はなかったと思うのですけれどね。なぜわざわざ呼び名を変えて区別したのでしょうね。【伊万里白磁水指】 私が所有する伊万里の水指です。塗り蓋は添っていますが、紐もかけられない茶道具にしては格の低い古い樅箱に入れられていました。模様は無く白磁で、単純な筒形ではなく口と高台脇で胴を絞っています。私が伊万里と判断したのは底面の土味と蛇の目高台(じゃのめこうだい)でした。蛇の眼のようだからそう呼ばれますが、高台内の釉薬を拭き取ってチャツと呼ばれるドーナツ形の陶板の窯道具の上にのせて焼いたのです。底部が沈み込まないように、トチンに代わって採用された技術です。 では、伊万里はどうして茶の湯に用いられなくなったのでしょう。 桃山時代は茶の湯が文化の中心に在ったと言っても差し支えないでしょう。権力者たちが争うように茶道具の名品を求めました。ところが、天下が統一されると、そのブームにも少しずつ陰りが見えるようになります。 茶室の内では刀を外しての「貴賤平等」であると言う、利休が重んじた思想に警戒感をもった人物が現れたからです。信長・秀吉の時代を味わって、自ら権力を手中に収めつつあった徳川家康です。 下剋上がもたらした戦乱の世を嫌というほど味わって来た家康は、主従関係を乱す恐れのある思想を警戒したのです。ましてや茶の湯の指導者である茶頭(さどう)が、政治に関与するなど言語道断であったことでしょう。そのため、身分の上下を重んじる儒教精神に重きを置いて統治を進めようと考えた家康は、教養を高める手段として茶の湯は評価しつつも、それが文化の中心になる事を戒めました。 家康は1616年の伊万里が開窯した同年に亡くなるため、伊万里の発展に直接関与はしませんが、茶の湯が文化の中心に在り続けることを抑制したことは、伊万里が茶の湯から離れた方向へ進む原因の一端を作ったと言えるのかもしれません。 その後、中国・景徳鎮の活動末期、1640年直前の頃に自分好みの祥瑞の品々を発注したと言われる大名茶人の小堀遠州も1647年に没し、茶の湯を牽引した大巨星が生きた時代が終わりを迎えました。それと同時に茶の湯の隆盛にも陰りが見え始めたのです。その頃に勢いをつけ始めた伊万里に、好みの茶道具を発注し、それを自らの手で流行させるような、エネルギッシュでカリスマ的な茶人が現れる時代ではなくなったということだったのでしょう。 また遠州がこの世を去った同時期には、京都の御室(おむろ)で野々村仁清が活動を始めて、きれい寂び(さび)と呼ばれる新しい美意識が数寄者たちの中で流行して行ったことも茶道具が伊万里に発注されなかった理由にあるのだと思うのです。野々村仁清作 御本茶碗 銘たつた 後西天皇箱(1638年~1685年) 野々村仁清作 細茶入 仁清の作品を触れずして、解説することは大変難しいのですが、無地の陶器でありながら、ボテとした凡庸さはなく、まるで薄手の磁器を思わせるような繊細でシャープな存在感を感じ取っていただけるでしょうか。また高麗の焼物のような長年の使用によって染み込んだ景色や時代感を味わうのでなく、土物でありながらもすっきりした清潔感に魅力がある焼物です。いずれの品も添えられている仕覆も箱にも考え抜かれた数寄者の趣味が際立っています。茶道具は焼物本体だけに価値があるのではなく、長い年月を引き継いできた人々の思いによって、更に価値が高められていることがお解かりいただけるでしょうか。このような扱われ方は、伊万里には滅多に見られないものだと思います。 それでは、古九谷・柿右衛門・鍋島の各様式の焼物は茶の湯を離れ、どのような道をたどったのかをお話しましょう。 まずは、古九谷のストーリーです。 1647年に初めて伊万里のうつわは中国船によって海外へ向けて輸出されたと言われています。景徳鎮の焼物を中心に交易をしてきた人々は、明国の滅亡にとってそれに代わる交易品を探し求めて伊万里にたどり着きました。当時の伊万里では日本国内での流通を目指した古九谷様式のうつわが焼かれていましたから、中国商人は日本人向きのうつわの中から、自分たちの好みに合うものを選別せざるを得なかったようです。 数年前のことですが、インドネシアの首都にあるジャカルタ国立博物館に、海を渡った古九谷の大皿が数点収蔵されていると聞いた私は、とても驚いたと同時に、ぜひこの目で確かめたいと思っていました。ところが最近、ひょんなことから、インドネシアの古都、ジョグジャカルタにいまも残るスルターン(君主)一族の方に出会いました。博物館に収蔵されている古九谷の話をしたところ、それらは、当時インドネシアを植民地化していたオランダ人が日本から運んだものではないだろうか、と聞かされました。 確かに1650年からオランダ人による伊万里の輸出が始まり、最初は主にアジア諸国に向けてのものだったと記録があるようです。しかしさらに詳しく調べると、ジャカルタ国立博物館に収蔵されている古九谷様式の伊万里は1650年代に焼かれた青手古九谷の大皿であり、当時中国船が交易を繰り返し、運ばれたものであるとジャカルタ国立博物館はその研究結果を発表していました。 オランダ船による交易以前に、すでに中国船によって多くの古九谷様式の伊万里は輸出されていたのです。その中には1640年以前の製造と考えられる初期伊万里様式のうつわまでもが発見されており、伊万里の輸出体制が整うのを待てず取引が始められるほどの人気があったことが窺われます。 輸出品として人気があった古九谷様式の伊万里ですが、それでも古九谷様式のうつわは主に国内向けに焼かれていた製品だったと思われます。その理由として、1683年に江戸で起こった天和の大火(八百屋お七の大火)で、本郷にあった加賀藩江戸屋敷は焼失し、その発掘調査から大量の古九谷が発見されたという報告が、1985年(昭和60年)の新聞に発表されました。 古九谷伊万里の産地論争は一旦横に置いて考えれば、加賀藩主であった前田家は、少なくとも古九谷の大収集家であったことに間違いありません。大火は1683年のことですから、それから数年後の1690年ころに古九谷の生産が終了してしまうのは、この大火を契機に、江戸屋敷の再建などで莫大な費用が必要になった前田家は、続けて古九谷を購入する資金が無くなったことに原因にあるのかもしれません。 そんな古九谷の栄枯盛衰に関わるほどの注文量を加賀藩が握っていたと考えられることからも、古九谷は国内向けブランドだったのでしょうね。 さて、ここまで古九谷様式についてお話してきましたが、案外長くなってしまったので、残る柿右衛門と鍋島は来月に持ち越しとさせていただきます。伊万里焼と古九谷焼7につづく
-
BLOGうつわ知新
2022.01.31
伊万里焼と古九谷焼5
まずは「伊万里焼と古九谷焼」について深く詳しく。5回目は、藍九谷と吸坂手について解説いただきます。「伊万里焼と古九谷」の物語をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。伊万里焼と古九谷焼5 さて、今回からは前回お話しきれなかった藍九谷と吸坂手についてお話をしていきます。 まずは藍九谷ですが、皆さんはこの「藍九谷」という呼び名はいつからあったと思いますか? 実は私がこの業界で仕事を始めた1990年頃には、まだ藍九谷という言葉は、私の周辺の業者間ではあまり使われていませんでした。それからまもなく伊万里の人気が絶頂期を迎えるのですが、そのころから急に耳にするようになりました。そんな新しい言葉なので、私も重要性を感じず、しばらく曖昧な理解のままでした。 1640年以前の伊万里ではまだ色絵などを生産する技術が無かったため、ほぼ染付の器しか焼くことが出来ませんでした。1640年頃から中国人の陶工たちの移入が始まり、初期伊万里から古九谷様式の青手・色絵・吸坂手・藍九谷の焼物の生産が始まります。ここで私たちを混乱させるのは、これら4種類の焼物の中で青手・色絵・吸坂手は加賀地方で焼かれたと分類されたことです。そして藍九谷は初期伊万里から進化した、古い染付けの伊万里として注目されてはいませんでした。 現代になって九谷で焼かれていた青手・色絵・吸坂手が伊万里に組み込まれるようになった時、染付の古い伊万里と古九谷の間に共通する図柄があることが注目されます。そうして、古い染付が藍九谷と呼ばれ古九谷様式の仲間入りを果たすのです。 この藍九谷の初期の作品には、素焼をせずに絵付と施釉を行う、「生がけ(なまがけ)」と呼ばれる初期伊万里と同じ焼き方をしたものもあります。ちょうど初期伊万里から古九谷様式への過渡期的な作品だったのでしょう。それらは厚手で高台が狭く、高台周辺には陶工の指跡なども残されていて、初期伊万里と同じ特徴を持っています。やがて素焼きの技術が導入され始めると、藍九谷においても高い表現力を駆使した絵付けが行われていきます。その理由は、呉須の濃淡を巧みに使い分けることや輪郭線で囲まれた内側を塗り詰める「濃み(だみ)」の技術が向上したことにあると思われます。 後にご紹介する柿右衛門様式のうつわが出現すると、呉須の濃淡を藍九谷以上に巧みに使い分けていきます。藍九谷の段階ではそこに近づくまでの新しい取り組みなどを見ることができますし、呉須の色も、初期伊万里の頃に比べると、ずいぶん鮮やかになってきます。うつわの形状も薄造りになり、中央部の平らな面積も広くとれるようになります。それは裏面の高台内にトチンと呼ばれるピンを立てて、中央部の陥没を防ぐ技術を発明したおかげです。トチンの技術は伊万里独自のものなので、中国の焼物との見分けに役立ちます。【藍九谷見込牡丹花に葡萄七寸皿】 呉須を用いて絵付けする前の表面に墨を用いて細い線を描き、その上から呉須をのせています。墨の成分は油ですので、上から呉須を塗っても弾き、さらに墨は窯の中で焼け飛んでしまうため、墨で描いていた線が白く残ります。縁に描かれた葡萄には、この墨弾き(すみはじき)と呼ばれる新しい技法が使われているのです。呉須の扱いも格段に進歩し、発色も美しくはなりますが中央部に描かれたのが何の花なのかをはっきり表現できるにはいま一歩です。初期伊万里にはみられた指跡は裏側に見られず、ピンホールと呼ばれる釉抜けは見られるものの、仕上がりの美しさへのこだわりがはっきり表れて来ました。七寸皿 (直径21cm)の大きさに合わせて3本のトチンを立て、高台も広くとられています。トチンは極力小さして、美しさを損なわない配慮を見せています。 吸坂手を初めて見た人は誰もがこれが古九谷の仲間であることに驚かされます。この吸坂と言う名前は石川県の加賀地方の焼物を焼いた地名に由来しています。吸坂の名前でさえも古九谷の産地は加賀だと主張しているかのようです。この吸坂の地では、伊万里が始動するより古くから生活雑器を生産していたとされ、発掘調査もされていたはずですが、その結果を伝える報告を見出すことはできませんでした。恐らく、古九谷伊万里論争に影響を与えるような発見は無かったからだと思われます。 写真のふたつの吸坂の皿を弊店の加賀市の店を長年支えてくれていた社員に見せたところ、無地のものはおそらく加賀で焼かれた皿で、蕨絵の方は伊万里で焼かれたものだという見解を語ってくれました。加賀に住んで古九谷を扱ってきた人にとっては、まだまだ古九谷を伊万里だと言い切ってしまうことに抵抗があるのです。いずれにしろ、この吸坂手は生産量が少なく見かけることも難しいので、この場にご紹介できたことは幸運なことでした。 それはさておきこのシンプルに錆釉(銹釉・鉄釉とも)をかけただけの吸坂手のアイデアはどこから来たのでしょう。このお手本となる焼物がちゃんと中国に存在したのです。明国で生産されていた「柿南京(かきなんきん)」や「餅花手(もちはなで)」と呼ばれるうつわです。これらは錆釉の上から「いっちん」で装飾する技術も採用していました。このことから考えても、中国からの技術の導入によって吸坂のうつわが焼かれたことがお解かりいただけるかと思います。【無地吸坂手古九谷端皿】 古九谷様式のうつわの大半の口縁部に虫喰いの解決策として鉄釉(錆釉とも)を塗ったことはお話しました。さらに、鉄釉でうつわ全体を被った作品を生み出し、それを吸坂手と呼びます。鉄釉の下の素地の様子は、釉の掛かっていない畳付き部分から窺うしかありませんが、硬質磁器ではなく半磁器で作られています。全面が錆色で面白味のない姿ですが、手にとると、極限まで薄く削られた、そのシャープさに驚かされます。写真では見にくいですが、高台内の中央にトチンを立てていたことが微かに窺えます。他にも先端部を外に向かって開いた端反り(はたぞり)に仕上げてあることや、見込みと周辺の立ち上がりの境界に段差を設けるなど繊細な意匠が魅力のうつわです。【蕨絵吸坂手古九谷端皿】 先にご紹介した「無地吸坂手古九谷端皿」は表面が細かなサンドペーパー状にざらついているのに比べ、この皿は表面が大変滑らかです。これは、無地吸坂手の素地が半磁器で、その素地に含まれる微細な砂が錆釉の表面にざらつきを与えているのですが、かたや蕨絵のこの端皿は素地が磁器質であり、さらに錆釉の上に透明の上釉を掛けて焼いてあるため、滑らかなだけでなく光沢まで生まれているのです。蕨の絵は周囲より膨らんで浮き出ています。これは無地の吸坂手の皿を作るように鉄釉を全体に掛けた後に、蕨の絵を「いっちん」の手法で描き、染付で部分装飾も行い、最後に透明の上釉を掛けて焼いているからです。「いっちん」と言うのは白い化粧土をチューブから絞り出す要領で、うつわの表面に絵を描く技術です。この蕨絵の皿は番傘の形をしていて。その形状を窯の中で保つため、幅広の高台と三本の脚で支えています。このような高台は私も初めて見ました。 うつわに虫喰いが発生するのを防ぐ解決策として、錆釉を用いた景徳鎮の取り組みはこれまでのお話でご理解いただけたと思います。ところがこの虫喰いが発生したのは景徳鎮の民窯だけで、呉須の漳州窯などでは虫喰いは見られません。中国から伊万里に渡って来た職人が積極的に古九谷のうつわの縁に鉄釉を塗ったということは、伊万里で働いた職人は景徳鎮出身者が多かったことが想像できます。 それでは伊万里に於いてはどうだったのでしょうか。結論から言うと伊万里の土と釉薬の収縮率は同じであったため、虫喰いへの心配は無用でした。ですから、やがて鉄釉はうつわの装飾のために使われるようになります。縁に鉄を塗るとうつわの強度が上がり、欠けにくくなるとも聞いたことがありますが、実際はどうなんでしょうかね。【古染付重菊向付】 明末期に作られた古染付のうつわの縁に見られる虫喰い。この景色は素地と釉薬の収縮率の違いで発生します。日本の数寄者たちはこの欠けたような風情を侘びているとして愛しましたが、やはり焼物としては欠点だと思います。【12代永楽和全造 祥瑞写茶盌】 明最末期に小堀遠州によって発注されたと言われている祥瑞。古染付の焼物の最終の進化形と考えてよいかもしれません。この写真はその祥瑞茶碗を永楽和全が明治前期に写したものです。遠州は虫喰いのない焼物がなんとか出来ないかと知恵を絞らせたのでしょう。虫喰いが発生しそうな箇所の釉薬を窯入れる前に拭き取らせ、その部分に鉄薬を塗らせています。口縁部分の虫喰いを補うための取り組みが、胴紐にも施され、一歩進んで装飾として利用されています。【色絵古九谷草花文八角端皿】 明国の滅亡によって、従来通りの生産が困難になった景徳鎮から、多くの陶工が伊万里に流入したと考えられます。先の祥瑞の茶碗でもご説明した鉄釉を塗って虫喰いを補う技術が古九谷様式のうつわに見られるようになります。伊万里では素地と釉薬の収縮率に差が無いため、虫喰いが発生しないことにすぐには気づかなかったのでしょうか。それとも鉄釉を使った装飾が流行していたのかもしれません。左上:柿右衛門手見込み獅子絵鉢 右上:柿右衛門手見込み盆栽皿手前:柿右衛門手生垣文膾皿 柿右衛門様式の染付は藍九谷の染付のうつわに比べて、磁器の白さを際立たせるように、余白を上手く活用した構図が考えられています。その白さも純度を増したようで、鉄粉が付着した黒子のような景色も見られなくなります。染付の藍色もご覧の写真のように透明感のある澄んだ色になり、その濃淡を使い分けて表現豊かになっていきます。絵画的でやや重厚な絵付けを好んだ古九谷様式より図柄も洗練されたものとなります。周囲や裏側に描かれる繰り返し模様(パターン模様)の種類も増え、その凝った意匠を描くための労力を惜しまない姿勢は最上級の焼物に挑戦するかのようで、特に染付には日本人好みを追求した図柄を研究した様子が窺えるようです。 このように古九谷様式が開花することで、一気にその魅力を高めた伊万里ですが、さらに焼物としての完成度が頂点に達する時代に入っていきます。その販路も日本国内からアジアへ、さらに欧州へ広がりをみせ、それぞれの顧客の要望に合わせた焼物の開発もされるようになります。それが古九谷様式の進化だけに留まらず、柿右衛門様式・鍋島様式・古伊万里様式を誕生させて行くのです。 やがて古九谷様式は主役の座を他の様式に譲って1690年頃に終焉を迎えます。伊万里の歴史を振り返ると、古九谷誕生から17年代前半の柿右衛門様式・鍋島様式・古伊万里様式が展開される時期は、伊万里が最も芸術性の高い焼物を世に送り出した時代でもあったのです。 この先どのように伊万里が進化していったのか、またどのように茶の湯道具や懐石のうつわから距離のあるうつわになっていったのかを、次回お話させていただくことにします。伊万里焼と古九谷焼6へつづく
-
BLOGうつわ知新
2021.12.31
伊万里焼と古九谷焼4
9月末~4回ほどは「伊万里焼と古九谷焼」について。4回目は、古九谷様式に焦点をあてて解説いただきます。「伊万里焼と古九谷」の物語をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。伊万里焼と古九谷焼4 先月は、伊万里が中国人の技術指導を得たことで、初期伊万里と呼ばれた時期を抜け出していく様子と、その時に獲得した技術的な特徴についてお話をさせていただきました。 優しく解説すると言っておきながら、後で読み直すと結構難しくなってしまったことを反省しております。 まずは今回の導入部分をお話しすると、伊万里は1640年頃に初期伊万里から古九谷様式と呼ばれる次の時代に入っていきます。そして古九谷様式の焼物は中国人の技術指導を得て、大きく分けて、青手古九谷・色絵古九谷・藍九谷(染付)・吸坂手(錆釉)の4種類の作風へと広がりを見せていきます。 今月は、この古九谷様式の焼物に焦点をあててお話ししたいと思います。 青手古九谷には、磁器と半磁器の焼物があります。半磁器と言うのは陶土(粘土)と、磁土(陶石の粉末)を混合した生地を用い、陶器の柔らかな風合いを残しつつ、磁器に近い強さを持った焼物です。 主に緑の色釉で表面を塗り詰めているため、緑色っぽく見えることから青手と名付けられたようです。緑色なのに青と呼ぶのは、古くから緑を青と呼んだ日本の習慣に由来すると言われます。 色釉でうつわの全面を塗り尽くしたのは、くすんだ色調の生地を隠すためだったと記された文献を見けることがありますが、それならば磁器質のうつわだけを生産して、半磁器のうつわを生産した説明ができません。私は逆に、半磁器のくすんだ生地に色釉を乗せることで、全体の色調に重厚感が出るからではないかと考えています。 青手古九谷は赤の色釉を使っていないこともその特徴です。さらに絵付けにおいて高い画力を求めて、職人ではなく絵師に力を発揮させていたことも特徴のひとつでしょう。絵画のごとくに一点限りの焼物を作ろうとしたと考えられます。 古九谷の下絵は、狩野派の絵師で金沢にも住まいした久住守景によるものではないかという説もあると読んだことがあります。これはそれほど数寄者が、自分だけの唯一の茶碗を所有することを望んだように、注文主の好みを強く反映させようとした証と言ってよいのかもしれません。 伊万里青手古九谷様式椿絵鉢 赤の色釉は使わないと言う青手のお約束の通り、赤は使われていません。高台の内側の色釉を塗っていない箇所や、高台の畳付き部分の素地の色を見れば、このうつわは磁器ではなく、くすんだ色の半磁器であることがお分かりいただけるでしょう。しかし、そのくすんだ素地のおかげで、落ち着いた重厚感があらわれて、魅力が増しているのも事実です。これは青手の鉢類の中では比較的小さい部類の七寸 (約直径21cm)の大きさですが、量産することを主眼に置かない一点物の風格が感じられます。お菓子を盛ってもおさまりが良いのは、茶人たちの好みを意識して造られた青手古九谷の風格なればこそでしょう。後世の伊万里とは異なる高い美意識だと思います。 色絵古九谷では青手古九谷同様に一点限りの大皿なども焼きながら、同時に、景徳鎮で焼かれ輸入された南京赤絵の写しや、日本人の好む図柄や形を反映させた数物の向付も量産しています。その背景には、中国からの陶磁器の輸入量が激減し、入手できなくなった古染付などの穴を埋める必要があったからだろうと推測できます。 ところが、品質も向上し、これから販売攻勢をかけようとする伊万里のライバルとして想定された明国の陶磁器が、生産量が減るどころか国もろとも消滅してしまったわけです。それは、衝撃的な出来事ではありましたが、伊万里にとっては千載一遇のチャンスが到来したことになったのです。 色絵古九谷と言うのは、赤・緑・黄・紫・紺青(こんじょう)の5色の上絵釉内のいくつかと、意匠によって染付も組み合わせて彩色された磁器を指しています。白磁の上に鮮やかな色絵を用いて、豪華な大皿も焼かれていますが、同時に端皿(はざら)と呼ばれる円形・四方形・長四方形・扇形・菱形・八角形など多彩な形状の平向付(平皿)も大量に焼かれました。 この端皿はおおよそ20客揃いの数物であったと言われていますが、手間を省略して大量生産に重きを置いただけのうつわではなかったようです。サイズを小さくして量産はしても、クオリティーは保とうとする心意気が感じられるうつわなのです。 形も多種多様のものが作られていますが、これは織部の向付から古染付の向付に受け継がれた数寄者たちの形へのこだわりが、この色絵古九谷の端皿に反映された結果でしょう。 だからこそ、現代の茶会においても色絵古九谷の端皿が向付に用いられているのかもしれません。また茶会の中での色絵古九谷は他の古い道具と違和感なく馴染んでいます。茶会で伊万里は使われないのだと皆様にお話してきましたが、この古九谷様式のうつわは茶人のことも意識して造られていたのかも知れないと、私自身が伊万里と古九谷を深く学んでいく中で感じられるようになりました。色絵古九谷山水図長方皿 左に岩山、右手前に梅、右奥に楼閣を遠景で描き、紙に描く山水画を陶器で試して額縁にはめたようです。奥行きのある構図は、画家の指導があったことを感じさせます。色絵古九谷牡丹図四方皿 中央に百花の王の牡丹を、周囲に子孫繁栄を願う葡萄を描き、目出度さを表現しています。描かれた複数の植物の配置が実に見事です。色絵古九谷団栗図菱形皿 中央に子孫繁栄の団栗を描き、周囲の丸窓には宝珠を描いています。菱型も植物の菱が子孫繁栄のシンボルなので目出度さを意識したデザインになっています。色絵古九谷山水長方皿 中国由来の絵画風、日本では狩野派がこのような構図を好んで描いています。やはり狩野派絵師の指導があったとしか考えられません。古九谷寒江独釣図丸皿 茶人好みの中国絵画の題材を採用し、生産者の教養の高さが感じられます。裏面中央の緑の部分の中に柱を立てた跡が見られます。高台内の沈み込みを防止するための伊万里独自の技術です。とりどりの色絵古九谷向付(端皿) ほとんどが丸い皿型の青手古九谷に対して、色絵古九谷の形は実にバラエティーに富んでいます。このようなユニークな形の展開は織部向付に始まり、動植物や様々な形を採用した古染付向付に受け継がれ、丸・四方・長方・菱のこれら古九谷端皿のへと、国境さえも越えておおよそ100年間進化してきたものだと思います。このような向付の進化の先に色絵古九谷が存在するからこそ、茶懐石のうつわとして用いられているのではないでしょうか。色絵の端皿のひとつにお菓子を乗せてみましたが、青手の鉢ほどのおさまりの良さは感じられません。青手古九谷とは違い、料理の向付として生まれているからかもしれません。 来月は藍九谷、吸坂手についてお話していきたいと思います。伊万里焼と古九谷焼5へつづく
-
BLOGうつわ知新
2021.11.30
伊万里焼と古九谷焼3
9月末~4回ほどは「伊万里焼と古九谷焼」について。3回目は、古染付と伊万里焼との製作技法の違いについてのお話しです。「伊万里焼と古九谷」の物語をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。伊万里焼と古九谷焼3【古染付の縁に見られる虫喰い(17世紀前期)】素地と釉薬の収縮率の違いによって生じる口縁部の釉の脱落。本来は欠点であるはずの現象が、400年前の数寄者たちには佗びていると喜ばれました。まるで、現代人がダメージジーンズや古着をイケてると思う感覚です。【伊万里古九谷様式の口紅(17世紀後期)】【古伊万里の口紅(1700年前後)】陶工たちにとって、虫喰いはいつかは克服しなければならない問題だったのでしょう。好き嫌いは一旦脇に置いても、虫喰いの無い口縁部分はスッキリして、うつわが上品に見えるようです。先にお話したように、1640年代になると中国人技術者が伊万里で活躍をはじめると言いましたが、そのことを示す証拠は伊万里の作風にありありと残されています。中国景徳鎮から日本に大量に輸入された、古染付と呼ばれる磁器には克服のできない欠点がありました。それは虫喰いと呼ばれ、うつわが欠けたようにも見える、ガラス状の上釉(うわぐすり)の脱落です。これは人が誤ってうつわを欠けさせたのとは違って、磁器を焼成した後の冷却中に発生する現象です。明末期で活動休止間近の景徳鎮では、虫喰いを回避するためにうつわの口縁部分などの脱落が発生しそうな部分の上釉を窯に入れる前に拭き取り、代わりに鉄釉を塗るという方法を採用しています。日本人が特に好んだ祥瑞などにはその技法がよく見られます。ところが伊万里では釉薬と生地の収縮率に大きな違いがないために、単純に焼き上げても虫喰いは発生しません。一方、中国人の技術者たちは伊万里においても景徳鎮と同じように虫喰いが発生することを当然と考えていたために、1640年代以降の伊万里のうつわの縁に盛んに鉄釉を塗るように伊万里の陶工たちに指導したのだと考えられています。その後この技法は口紅と呼ばれ、うつわの装飾法として現代でも使われています。【うつわの中央部にトチンによる盛り上がりが見える/伊万里古九谷様式(17世紀後期)】高台中央部にトチンを立てた効果があって、中央部がくぼもうとするのが抑えられているのがよくわかります。このうつわは極端に薄く作られ、なおかつ平坦な部分を広く取られているため、トチンなしでは皿の形状は保てなかったものと思われます。【高台中央「福」の字の中にトチン跡が見える】上の皿を裏側から見ると、中央の福の字の中にトチンの跡が小さく残されているのが分かります。このように、中央にトチンを置くと、高台内の装飾と重なってしまうケースも多々見られます。さらに中国と伊万里の胎土の性質の違いによって考え出された新技術についてお話ししましょう。伊万里に用いられた胎土は、中国景徳鎮の胎土に比べ、コシがないために窯の中で変形しやすい性質を持っていました。そのため、古染付のうつわのように、高台を広くして、うつわを平らな皿のような形に仕上げようとすると、高台中央部分が重さに耐えられず凹んでしまいます。こういった特徴から、なかなか製品として納得できるレベルには至りませんでした。景徳鎮では気に掛ける必要がなかったこの問題に、中国人技術者たちは悩まされたことでしょう。それを解決するためには、初期伊万里と同じようにうつわの中心部に厚みを持たせ高台を小さくするしかありません。そこでトチンと呼ばれる小さな支柱を高台内に立てて焼くことによって、うつわの中央部の陥没を防止する技術を考え出します。1640年頃以降の高台が広い円形の丸皿には、高台内に焼成後に小さな柱を外したトチン跡を発見することができます。これは伊万里独自の画期的な技術だったのです。ただ、このトチンと高台内に記されている福などの文字等が重なって見苦しくなることも頻繁に見受けられます。【古伊万里のトチン跡(1700年代前期)】【伊万里のトチン跡(1800年代中期)】トチンの配置の仕方も研究が進み、複数配置されるようになっていきます。その反面、先の古九谷様式の皿の様に、なるべくトチン跡を隠すために福の字を描いたり、トチンのサイズを最小限に収めようとする努力は緩んでくるように思います。後世では更にトチンを目立たなくしようとする気遣いは失われていくようです。トチンを発明したことは伊万里をより進化させていきます。中国製の磁器の裏面に見られる、砂が付着した砂高台という景色を皆さんはご存じでしょうか。うつわにかけた釉薬が焼成中の窯内で垂れ流れて、窯の底面とうつわが溶着してしまうことを防ぐため、窯の床に砂を撒いていたことを物語るものです。また焼成時にうつわが何割か収縮しようとするときの動きを妨げない役目もありました。しかし、高台付近に多く付着した砂は見栄えが悪く、食事の時に使う漆器の折敷(おしき)を傷つける厄介者でしかありません。初期伊万里の段階では高台付近に砂の付着が見受けられますが、トチンを発明して以降の伊万里では、うつわをトチンによって床面に接触させないことにより、砂を撒くことから解放されていきます。このことによって、高台付近に砂を付着させないだけに留まらず、より一層、高台を美しくしようとする意識が生まれました。畳付き部分の釉薬の削りや拭き取りも一段と丁寧に行われ、高台に櫛目の模様などを描いて装飾を行う習慣が生まれていきます。これは私が感じているだけに過ぎないかもしれませんが、伊万里は古染付と比較して釉薬を薄く、丁寧にかけているように見えます。それもこのトチンを発明し、高台周辺を美しく見せようと進化を遂げたことに続く努力の結果のように思えます。【古染付の砂高台(17世紀前期)】この古染付の高台への砂の付着は極めて少なく、高台の中に砂が混じっている程度です。しかし、時には大量の砂が付着して折敷やテーブルを傷つけることへの気遣いが必要なこともよくあることです。この砂の付着についても、景徳鎮の窯においては時代が進むとともにできるならば少なく抑えたいという努力の跡が見られるようです。【古伊万里の高台周りのきれいさ(1700年代前期)】景徳鎮のうつわの高台周りに対して、初期の伊万里の段階では同様に砂の付着も見られましたが、1640年以降の伊万里に関しては砂が付着せず、同時に高台の畳付き部分の削りなども端正に、美しさを求め始めたような気がします。最後に、初期伊万里に見られる大きな特徴として、生掛けと呼ばれる技法があります。粘土を成形した後、日陰にて乾燥をさせ、その後、今では当たり前に行われる素焼きという工程を行わずそのまま絵付けをし、釉薬をかけ、本焼きを行うことを生掛けといいます。伊万里の胎土は、陶石を粉末になるまで砕いて水を加え、粘土としただけのものなので、自然乾燥させても、不注意に扱うと崩れてしまう危うさを持っています。ましてや、自然乾燥では内部に水分が残り、呉須を用いて絵付けをする時も、その水分のために呉須の吸い込みが悪く筆が良く滑り、大胆な筆遣いには向いていますが、細やかな模様を描くのには向きません。そのため、初期伊万里の頃の絵付けはざっくりとした水彩画のようなのです。こうして絵付けの後、釉薬を施すわけですが生地がたいそうもろいために、高台周辺の頑丈な部分を持って釉薬をかけていました。その結果、高台周辺に指跡が残ってしまい、これが初期の伊万里の特徴の1つとも言われています。そしてここに素焼きの技術が導入されていきます。粘土を思いの形に成形し、日陰での乾燥を経て、低い温度の窯で一旦焼成するのです。この作業を行うことで、もろかった生地から水分が抜けて焼き締ります。その結果、絵付けに使う染料の呉須の吸着が強くなり、釉薬をかける作業もうつわの破損にそこまで気を使うことなく、楽に行うことができるようになったようです。【上:生掛けで描かれた古染付のうつわたち(17世紀前期)、下:素焼きの後に絵付けをした古伊万里のうつわ(1700年前後)】上下二つの写真を比較して、皆さんはどちらがお好きでしょうか。生掛けでの絵付けは下書きもなしにいきなり絵付けを行ったように、荒っぽいながらものびのびと力強く描かれています。その反対に下の写真は、素焼きを行った後に絵付けをした伊万里です。素焼きをして焼きしまったうつわは、絵付けの際の取り扱いも気遣いがいらず下絵なども用いて計画的に書き込みが行われたことが見て取れます。染付の濃淡もはっきり使い分けて端正な表現が際立っています。このように、アジアの歴史の流れ、磁器の製造技術の進歩があって、初期伊万里と呼ばれた時代を抜け出し、やがて古九谷様式と呼ばれるうつわを生み出した伊万里の陶工たち。かれらにとって、この1640年頃の出来事は現代に続く大きな転換期であったことが少しはご理解いただけたでしょうか。詳しく書けば読みにくくもなる事は理解しています。しかし日本の陶磁器にとって桃山からこの江戸初期はその礎となる時代です。ゆっくりお読みいただき、理解を深め、今後の伊万里の展開をお楽しみいただければ幸いです。伊万里焼と古九谷焼4につづく
-
BLOGうつわ知新
2021.10.27
伊万里焼と古九谷焼2
9月末~4回ほどは「伊万里焼と古九谷焼」について。今回は、中国から伝わった磁器が、その後伊万里焼として日本に定着し、海外へと輸出されるに至るお話しです。「伊万里焼と古九谷」の物語をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。伊万里焼と九谷焼2~伊万里焼の変遷~先月のお話の中で李参平が1616年頃に伊万里を焼き始めたとお話ししていましたが、それと同じくらい大きな功績と言って差し支えないのが陶石(陶磁器の原材料となる鉱石集合)の発見でしょう。伊万里は日本で最初に焼かれた磁器でありますが、磁器というのは従来まで焼かれていた土ものの陶器とは違い、全く吸水性がなく、白く、そして金属の様に硬い焼物です。その製造に不可欠な陶石を、李参平が有田地区の泉山(いずみやま)から発見したのです。 現在では、泉山の良質な陶石は採取され尽くし、熊本県の天草の陶石が日本の磁器生産に欠かせないものになっています。伊万里が焼き始められる頃の日本では、中国から輸入した磁器が富裕層の間で大ブームとなっており、国内の流通シェアも中国製が独占していました。それに対して駆け出しの伊万里が、いきなり中国製磁器の品質に肩を並べられるはずもありません。初期伊万里は泉山の陶石を粘土に精製する際の技術が低く、不純物を取り除くことができなかったために、景徳鎮から輸入された磁器のような鮮やかな白肌に焼き上げることが出来ませんでした。また、窯の中で歪んでしまうことや、粘土に含まれた鉄分がほくろのように表面に現れることもあり、呉須を安定して青色に発色させることにも苦労していて、焦げ付かせることもあったようです。私の手元にも歪んだ初期伊万里の盃風のうつわが数点ありますが、それは窯の中で変形してしまい、製品として出荷出来なかったために、周辺に打ち捨てられ、後世になって誰かが発掘したものだと思います。きっと同じようなおびただしい数の失敗作が未だに伊万里地区の地中には眠っていることでしょう。このような試行錯誤の時期を過ごしていた、開窯して間もない伊万里ではありましたが、かえって職人たちの情熱が素直にうつわに表現されているのかもしれません。この開窯から1640年頃までに作られたうつわを初期伊万里と呼び、完成度の高い後の伊万里よりもこれらを好む収集家もいるのです。この初期伊万里と呼ばれる製品を生み出していた時代から、さらに発展をとげていく九州の小さな磁器の産地は、欧州やアジアの歴史の大きな流れに乗って脚光を浴び始めます。では、1640年以降の伊万里がどのようにして世界で認められ、どの様な特徴ある焼物に成長して行くのかについてお話させていただきましょう。まず大きな歴史的出来事と言えば、明の滅亡です。本来なら伊万里とその商圏を争うはずだった中国製磁器が1644年を契機に、生産量を激減させていきます。それは日本だけでなく欧州に向けて輸出される製品にも影響を及ぼしていきます。その原因は、この年に漢民族の明(みん)が滅んで、満州族の清(しん)が建国されるからです。明が滅亡に向かう直前は、広がる社会不安の中、中国から陶磁器の技術を持った人々が難を逃れ、伊万里に多く渡ってきたと思われます。このことは朝鮮半島の職人たちがそれまで担ってきた伊万里の指導的な立場を一変させ、中国人による指導体制の導入が行われたと考えられます。1616年の開窯以降、品質向上や安定した製品を供給するまでに、予想以上の時間を要していたことは、伊万里を運営していた鍋島藩の財政に相当な負担になっていました。この極東アジアの政変は伊万里に大きな発展をもたらし、急激な品質の向上をも叶えることになるのです。次に伊万里は、中国磁器の持っていた商圏を獲得して行きます。明が滅亡し、1644年から急激に中国磁器の生産は滞っていきます。その後、清国が建国されますが、磁器の輸出が再開されるまでしばらく時間を要します。その機会をとらえるように、1647年には中国船によって伊万里が輸出され始めたと言われています。つまり、中国の商人らが自国の磁器の生産が滞っていたため、その取り扱いに見切りをつけて伊万里を扱い始めた出来事だったのです。伊万里の陶工たちにとっては中国磁器を収集することに夢中だった日本の数寄者たちに振り向いてもらうため、中国からの渡来技術者の指導の下、日本独自の焼物へと転換を試みていた矢先の出来事でした。伊万里を輸出することなどは思いもしていなかったことだったらしく、中国の交易船に積み込まれた製品は、中国商人の注文品ではなく、日本国内向けに作られた作品の中から選ばれたと考えられています。中国製の磁器の商圏を伊万里がとって代わる第一歩で、思いがけない幸運と言ってよいでしょう。中国船の輸出に遅れること3年、1650年になると、オランダ船によってベトナム地方の東京湾(トンキン湾)へ向けて伊万里の輸出が始まります。これが欧州向けの荷物でなく東南アジア向けの荷物であったのは、中国製磁器の生産が止まっても、しばらくは東インド会社にいくらか磁器の在庫が残っていたからか、ヨーロッパの顧客側に伊万里を求める準備が出来ていなかったからだと言われています。そして1659年になって、ようやくオランダは伊万里をヨーロッパ向けに取り扱うようになっていきます。ここからヨーロッパの顧客の好む形や図柄の開発が急激に進んでいくものと思われます。伊万里焼と古九谷焼3につづく
-
BLOGうつわ知新
2021.09.30
伊万里焼と古九谷焼
9月末~4回ほどは「伊万里焼と古九谷焼」について。伊万里焼は、なぜ料理屋では使われることが少ないのか。これまで石川県の焼き物と思われていた古九谷焼が実は伊万里焼だった。など、目からウロコのお話しです。「伊万里焼と古九谷」の物語をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。伊万里焼と九谷焼私は30歳になる直前に結婚をし、少しずつ妻の家の家業だった骨董商の仕事をし始めました。当時はバブルの絶頂期へ向かう時代だったので、数ヶ月前のオークションで購入した品物が、今日のオークションでそれよりも数十万円高い値段で売れた。陶芸家に注文していた茶碗が右から左へ転売するだけで利益が出た。今から思うとなんと安易に商売が成り立つ時代だったことでしょう。 当時、妻の父親によって運営されていたこの店は多くの伊万里を取り扱っていました。外から見れば伊万里屋さんに見えるくらいだったかもしれません。ある時、店主の義父から、幾人も料理屋人の知り合いがいた私に、伊万里を積極的に営業するようにと指示が出ます。私は言葉通りに営業をかけてみたのですが、なぜか良い反応がありません。自分の売り方が悪いのかと悩んでいた当時、現在は東京のミシュラン二つ星を獲得されている有名店のご主人から、「懐石に伊万里は使えない。」と、耳を疑う言葉を聞かされました。そのご主人は私から、初代須田菁華や永楽家の作品をよく買ってくださっていました。 その後、この経験から料理人の方が好みそうな伊万里以外のうつわを多く扱うように心がけ、現在のように広く料理店にうつわを納めさせていただくようになったのです。今になって考えれば、当時伊万里を買ってくださっていたのは、羽振りの良かった主婦層が中心で、料理人さんたちではなかったかもしれません。 やがてバブルが崩壊し骨董市場に価格変動の嵐が吹き始めます。当然、伊万里も大きく値崩れしました。以前からの在庫品は大幅に売値を下げなければ、近い将来お客様から見向きされなくなるのは明らかでした。そんな経済の急速な下降局面で、私は店の経営を引き継ぎ店主になりました。直後は大量の伊万里の在庫を見て、それを売り切るのに要する年月を思って頭を抱えたものです。 この先も伊万里の市場価格は更に冷え込むであろうこと、料理人が根本的に伊万里を欲していないことから、私は損を覚悟で、あちこちのオークションで伊万里を投げ売りする戦略にでました。その行動を見た妻は、私の経営感覚に不安を覚えたようでした。しかし、ここで出た損害は、今後の売り買いを繰り返す中で挽回出来ると信じて、私はひたすら売り続けることにしました。同時に、売却して手にした資金で、まずは料理人さんたちの好む、永楽家や楽家のうつわへの買い替えを進めて行きました。 伊万里と有名作家の懐石のうつわには大きな価格差があったため、小銭をかき集めて千円札1枚と交換するような感覚でした。伊万里はバラ売りするのが店頭での基本でしたが、それに対して、作者の共箱が添っていることで価値が高まる懐石のうつわは、5客や10客単位の共箱に入った組売りが当たり前になります。その組売りによって、バラ売りするより価格が高くなりますから、売れる機会が減りはしないかと不安に思ったものでした。 ちょうどその頃、京都のいくつかの名店にもお出入りさせていただけるようになり、うつわだけでなく料理の世界についても学ばせていただく機会を得てきました。販路も広がったおかげで、伊万里から取り扱いを乗り換えた懐石のうつわも順調に売れるようになったのです。 さて「伊万里は懐石に向かない。」と言われたことがあると書きましたが、その他にも伊万里のコレクターの方に「伊万里を使うと料理がどこか民芸風に感じられるようになる。」と言われたこともあります。皆さんはそのようにお感じになった経験がおありでしょうか。 日本に一番多く存在するうつわは伊万里だろうと私は思っています。にもかかわらず料理屋さんで懐石料理をいただくときも、懐石料理の本を読んでみても、伊万里はほとんど使われていません。不思議だと思ったことはありませんか。そのあたりをお話してみようと思いますが、その前に伊万里と古九谷は何なのかをお話しなければなりません。 伊万里は1620年に生産を始めたと言われて来ましたが、最近では少し早くなって1614~1616年頃だと言われています。豊臣秀吉の朝鮮出兵時に、鍋島藩によって召し抱えられた半島出身の陶工、李参平(りさんぺい/金ヶ江三兵衛)の手によって有田で焼き始められたとされています。とはいっても、いきなり完成度の高い伊万里焼が世に送り出されたはずがありません。まだこの頃は、唐津焼の窯と同じ窯で焼成されていて、くすんだ灰色無地や、単純な絵付けの染付の磁器を焼きながらの試行錯誤が続きます。このように唐津焼同様に朝鮮半島の技術を用いて始まった日本初の磁器の製造は、いまとなってはその未熟さが味わい深いと評価され人気がありますが、窯の中での灰などフリモノを被った景色や素地や染付の不安定さから、中国の景徳鎮から輸入されていた古染付に競合する相手と呼ぶには程遠い存在でした。また、事業としても採算が合っていなかったと考えられます。 1637年に鍋島藩は生産体制の見直しを行い、その甲斐あって、それ以降の品質に向上が見られるようになります。これは恐らく、滅亡寸前であった中国の明朝から景徳鎮の技術者が流入したことで中国人の技術指導が入ったこともあったと思われます。また直後の1640年頃からは、広い販路を獲得していきますが、これは明朝から清朝の移行する動乱期にあって、陶磁器の一大生産地の景徳鎮の生産が途絶え始め、陶磁器という重要な交易品の新たな生産地を西洋諸国が探し求め、伊万里にたどり着きます。このような複数の要因の重なりが、伊万里に急速な発展をもたらしたのだと考えられます。だいたいこの変化が起こった1640年以前の伊万里を初期伊万里と呼んで分類しています。 このような技術革新などの変遷を経て、1640年頃に登場するのが古九谷なのです。多くの読者が、この伊万里の話の中でどうして石川県で焼かれた古九谷が登場するのかと疑問に思われるかもしれません。そうです。最近まで古九谷は石川県加賀地方の焼物とされていたのですからね。 戦後間もなく、古九谷は有田地方で製造されたのではないかという説が提唱され、論争が起こります。それは、江戸時代に欧州に輸出された伊万里の里帰りが始まったことによります。里帰り品の古九谷と、間違いなく有田で製造された初期柿右衛門との共通点に注目が集まったのです。 また昭和31年にロンドンで開催された「日本陶磁器展」で発行された図録に、日本では古九谷に分類されている焼物と酷似した作品が、伊万里として輸出され、1671年製の銀の蓋が添えられていたため、古九谷は伊万里に分類すべきではないかと掲載されたのです。 最近の平成22年の国会で、国立博物館で古九谷が伊万里古九谷様式と曖昧な表記がされていること、また東京国立博物館所蔵の重要文化財に指定されている古九谷の大皿が、長年展示されないでいることについての質問が行われました。 しかし、弊店もそうですが、古美術商には関東や関西を問わず北陸方面に縁のある店が多いのです。自らの文化を否定されたような思いがあったのでしょうか、古九谷伊万里説には拒否反応を示す方は実にたくさんいたと思いますし、いまでも根強く残っているでしょう。私もこの話をしている最中に、叱られた記憶が幾度かあります。 しかし古九谷について、発掘調査が行われた結果、伊万里で生産されていたことがほぼ確定的となっています。焼物の名称も古九谷の名前は残したままの、伊万里古九谷様式と曖昧な表記することが展覧会の暗黙の了解になってしまいました。発掘調査の結果石川県の窯跡からは色絵の破片も見つかったようではありましたが、古九谷と呼ばれる様式とは少し異なるものだったそうです。しかし長年古九谷が石川県産だと思われてきた根拠も未だに明らかにされていません。さらに、古九谷が製造されなくなってから約150年後に生産された、吉田屋窯を始めとする再興九谷は古九谷が石川県加賀地方で作られたことを疑うことなく生産されたのは何故でしょうか。多くの謎は解明されず、玉虫色の答えのまま、一応古九谷は伊万里に属することになっているのです。伊万里焼と古九谷焼2へつづく
-
BLOGうつわ知新
2021.08.30
漆器3
今月のテーマは「漆器」です。日本料理にとって欠かすことのできない「漆器」について、その特徴を梶さんに解説いただきました。1回目は日本の漆器と使い方について。2回目は料理に用いるうつわの見方や解説です。そして3回目は、中華料理を新しい解釈で再構築するイノベーティブ中華の雄「ベルロオジエ」の岩崎シェフとのコラボレーション。 中国と日本の季節感を織り交ぜた岩崎シェフの美しい料理と漆器との稀なる融合です。「漆器の世界」をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。漆器3朽木盆 朽木盆は滋賀県の北西部、若狭と京都を結ぶ鯖街道に沿って発達した山間の朽木の集落周辺で、豊富な森林資源を背景に作られた漆器の盆です。 室町時代末期には足利幕府も弱体化し、12代将軍足利義晴・13代将軍足利義輝が京からこの朽木の地に難を逃れて滞在するなど、歴史の舞台に度々登場することから、単なる山間の閉ざされた集落ではなかったのでしょう。この朽木盆は領主の朽木氏が奨励して生産させ、上質なものは参勤交代の折に献上品として数多く江戸へ持参され、広く名前を知られるようになりました。 写真の朽木盆は、江戸に運ばれた上質な盆とは異なり、分厚く丈夫な作りで、低い足をつけて食事の折敷としても、給仕する側の扱い易さも考慮した、実用性に富んだ盆です。民間で自然発生し、発達した民芸色が強いので、一般の懐石料理店でこれをお使いになっているのは見かけませんが、摘み草料理で名を知られている美山荘では、この盆をお使いになり、お料理の趣をさらに高めておられるようです。漆器2より海老チリ風団子と名残鱧を陰陽スタイルで 「日本料理では、9月には重陽の節句にちなんだ料理が出されます。そもそもこの節句という考えは、中国の陰陽思想からくるものです。すべてのものを陰と陽のふたつに分ける陰陽思想では、奇数は陽の数字とされ、陽数の極み9が重なる日、9月9日が重陽と呼ばれるようになったのです。 今回は、陰陽思想を表す白と黒の「太極図」を料理で表現してみました。白の陽は、海老チリ団子にフロマージュブランのソースを合わせたもの。海老のひき肉を団子にして揚げ、桜海老をトッピングしています。一方、黒の陰は、名残鱧のミンチ、インゲン、大葉などをカダイフ(極細麺状の生地)で巻き、揚げたもの。秋ナスのピュレをソースに、焼き茄子のチュイールを添えています。 朱色と黒の朽木盆を見た時に、陰陽のデザインが頭に浮かびました。本来ならお盆として使われるものですが、今回はうつわに見立て使わせていただきました。」岩崎シェフ北大路魯山人造 日月椀 多くの人が憧れる北大路魯山人の漆器の代表作、日月椀です。このお椀は漆器の産地である温泉で有名な加賀地方の山中の辻石斎という職人が手がけました。私も様々な勉強をするうちに、魯山人と辻石斎が作り始めた当初の日月椀は、今の姿とはずいぶんと異なるものであったことを知りました。金銀の装飾部分は、金色の代わりに朱色、銀色の代わりに灰色を用いたのです。しかも、椀の外側表面の漆の下地に和紙を用いた艶の少ない一閑張(いっかんばり)も、最初は光沢のある一般的な椀の仕上げでした。 時間の経過とともに試行錯誤と改良を加えられた日月椀は、やがて一閑張が採用され、装飾では、金色の下に赤、銀色の下に灰色が隠されたお椀になっていきます(金銀の下なので見えませんが...)。 ただし魯山人はある時、辻石斎に対して絶縁状を送りつけて縁を切っておりますので、その後京都で作らせたものなのか、やはり山中の誰かに作らせたものなのか、詳細が分からなくなっています。この日月椀を眺めているうちに私は気づいたのですが、椀の胴にかすかなくびれがあります。このような形はお椀には見たことがありません。唯一心当たりがあるのは、樂家の作る樂茶碗に見かける特徴です。 魯山人がお椀に一閑張を採用したこと、微かに胴を締めた姿にしたことは、茶道具の形を熟知した数寄者からの助言に強いひらめきを得たのではないかと思っています。写真の右側の日月椀の金銀彩の下にはどちらにも朱色が隠されているのが見て取れます。下地の色が最終的に朱色と灰色になるまでには試行錯誤があったことが想像できます。 30年くらい前には、大きなサイズの煮物椀を好む料理人の方が多くいましたが、いまは小さめのサイズが好まれるようになりました。 しかし、この日月椀の人気はそんなサイズがどうこうという問題など、まったく関係ないようです。漆器2より蕪と菊花のお椀「9月に日本料理店にうかがうと、菊のお軸がかかっていたり、料理に菊花が用いられていたりと、重陽の季節感をさまざまに表現されています。 中国では、菊は不老長寿の効能があるとされ、古くから薬草として用いられてきました。重陽の節句には、菊に綿をのせて露を含ませ、その綿で身や顔をぬぐったそうです。 このお椀は、菊花を模した蕪に菊の花びらを添えた、まさに重陽を表した料理です。蕪の中には、栗のチャーハンを詰め込み、フカヒレをトッピング。鶏の白湯スープをはっています。魯山人のお椀の圧倒的な存在感には、シンプルで色も少ない料理をと思い、このお椀を仕立てました。 これほど素晴らしい漆器を中国料理に使わせてくださった梶さんの寛容なお心に感謝いたします。」岩崎シェフベルロオジエ2019年12月に苦楽園から四条河原町GOOD NATURE STATION2Fに移転して開業。ベースは中国料理だが、モダンスパニッシュにも通じるアート感覚にあふれた料理が評判。大阪のホテルで広東料理を、京都のホテルで四川料理を身に付けた岩崎祐司さんが、独学でフレンチなどガストロノミーを学び個性あふれるチャイニーズ・イノベーションを創り上げた。餃子や酢豚を再構築して旨味を積み重ね、デザイナブルな料理に仕上げる。温前菜からデザートまでのおよそ10~14品のコースは、驚きと感動の連続。ゆったりと楽しみながらも、時間があっという間に過ぎていく。■ ベルロオジエ京都市下京区河原町通四条下ル2丁目稲荷町318番6 GOOD NATURE STATION 2F075-744-698412:00~15:00(※12:30最終入店)、18:30~22:30(※19:00最終入店)休 水曜日(不定休あり)
- ALL
- - 料亭割烹探偵団
- - 食知新
- - 京都美酒知新
- - 京のとろみ
- - うつわ知新
- - 「木乃婦」髙橋拓児の「精進料理知新」
- - 「割烹知新」~次代を切り拓く奇想の一皿~
- - 村田吉弘の和食知新
- - 料亭コンシェルジュ
- - 堀江貴文が惚れた店
- - 小山薫堂が惚れた店
- - 外国人料理人奮闘記
- - フォーリンデブはっしーの京都グルメ知新!
- - 京都知新弁当&コースが食べられる店
- - 京の会長&社長めし
- - 美人スイーツ イケメンでざーと
- - 料理人がオフに通う店
- - 京のほっこり菜時記
- - 京都グルメタクシー ドライバー日記
- - きょうもへべれけ でぶっちょライターの酒のふと道
- - 本Pのクリエイティブ食事術