北京2022オリンピック・フィギュアスケート女子で見事、銅メダルを獲得した坂本花織選手。栄光を勝ち獲った坂本選手が所属する会社は、神戸に本社がある医療検査機器メーカー「シスメックス」だ。かつて、小さな規模だった岳父の会社を引き継ぎ、25年あまり経営の指揮をとる家次恒(いえつぐ・ひさし)会長兼社長。いまや売上高は3000億円を超え、血球計数検査機器(ヘマトロジー)の分野では、世界シェアの50%以上を占めるグローバル企業に成長した。なぜ、シスメックスは急成長を遂げることができたのか。会社を長きにわたり率いる家次会長兼社長に話を聞いた。
猛烈なタイガースファン!健康のためスポーツ振興にも熱心
―――家次さんは猛烈な阪神タイガースファンだそうですね?
阪神タイガースはある意味、すごく喜怒哀楽のある球団であると思っています。これは非常に大事なところでしてね。我々のような企業経営者も単に淡々と会社を経営するのではなくて、やはり色々な局面で喜怒哀楽が必要だと思いますね。つまり、要はトータルでみれば勝負に勝っているという状況を作ることが非常に大事だということです。阪神タイガースの戦いぶりと企業経営には共通点を感じます。
―――フィギュアスケートの坂本花織選手や三原舞依選手との所属契約や女子陸上部、そして神戸マラソンでは特別協賛されるなどスポーツ振興に熱心ですね。
坂本選手とは2017年から所属契約を結んでいます。神戸市出身でもありますしね。我々はヘルスケアの会社として、医療の発展や人々の健やかな暮らしに貢献することを目指していますので、スポーツとは非常に結びつきが強いわけですね。スポーツ選手はレベルが上がるほど色々な費用がかかります。それを企業がどういう形で支えるかというのは、非常に大事な要素です。これからもスポーツ選手を応援していきたいと思っています。
研究拠点に日本庭園「文化のないところにサイエンスは生まれない」
―――神戸市西区にある「テクノパーク」には立派な日本庭園がありますね。
「文化のないところにサイエンスは生まれない」と思っています。文化を知るというのはとても大事だと考え、若い社員たちに日本の文化に触れてもらう機会になればと。もう一方では、新型コロナウイルスが深刻になるまでは海外から多くのお客さまが来られまして、そういう機会におもてなしとして庭園のお茶室でお茶を飲むというのは、海外の人たちにとってはとてもインプレッシブな体験ですからね。
―――シスメックスの強みはどういった点ですか?
我々は医療機器メーカーですので、サービス&サポートというのがものすごく大事です。要は単に機器が「動く」「動かない」の話じゃなくて、「正確なデータが出ているかどうか」を常にメンテナンスする必要があります。ですから、私どもは「販売サービス」はもちろんですけど「メンテナンスサービス」の担当者を世界各国に送り込んでいます。研究開発から販売、メンテナンスサービスまでを一貫してシスメックスはやっているというのが、ひとつ大きな強みであると思います。
大手銀行マンから中小企業に転身「カルチャーショックがすごかった」
―――家次さんは京都大学経済学部を出て、旧三和銀行に入行されました。当時は三和銀行でずっとお勤めになるつもりでしたか?
当然ですね。当時は特に大学を卒業して会社に入ったら終身雇用というのが半ば当たり前で、その頃の銀行は比較的安定した職業みたいに世の中からは見られていたでしょうからね。シスメックスは妻の父親が経営していた会社です。岳父が勤めていた「東亞特殊電機(現TOA)」という拡声器などの会社が、新しい事業として医療の分析装置を作ろうという話が出て、それで岳父が「東亞医用電子(現シスメックス)」を創業しました。その岳父が亡くなりましてね、その時はまだプライベートカンパニーのようなものですから「これから会社をどうするか」という話になったそうです。結局、色々なことがありましたが、僕は岳父が亡くなって2年後ぐらいにこの会社に入ることになりました。
―――それが37歳の時ですか?
岳父が亡くなって2年が過ぎていましたから、残念ながら一緒に働くことはありませんでした。当時はまだ非常に小さな会社で、売り上げは100億円ちょっとの会社でした。兵庫県の東加古川に工場がありましてね、そこに本社機能も一緒にあったんです。会社の敷地の前は全部田んぼという感じ。私は会社を移る直前まで東京の京橋支店にいましたから、ある意味でカルチャーショックがすごかったですね。
―――会社の規模といい、業種といい、全く違う環境ですよね?
小さな会社だと、何よりも色々な制度が弱いですよね。人事制度だとか、原価計算制度とかの色々な制度ですね。当時はまだそういうものが中小企業にはあまりないわけですよね。さまざまな制度をきちんとやる、という話ですね。そこで、会社の株式を上場しようと。上場の良さは、上場基準がありますから、それに合わせた形で制度を作っていかなきゃならないですよね。上場のプロセスは、会社にとって実は非常に大事なところです。それは、上場で資金調達できるとかそんな話よりも、会社の制度がちゃんと整わないと上場できないということが重要なんです。
阪神・淡路大震災で物流が寸断 困難乗り越え強まった社員たちの結束力
―――大阪証券取引所に株式を上場した年に阪神・淡路大震災が起きました。相当大変だったのではないですか?
ずっと上場の準備をしてようやくという時に阪神・淡路大震災が起きました。当時、工場は加古川市でしたが、本社はポートアイランドにありました。地震の影響で社内のあらゆるものが倒れていましたね。それよりも大変だったのは、神戸大橋が損傷しまして車が通れなくなりました。そこで私どもはバイク隊を仕立てましてね。なぜそうしたかと言いますと、25日に給料を払わないとならないのですが、元となるデータが全部本社にあるわけですよ。
―――給料の計算のデータが?
とにかく給与を支払うために計算データを回収しなければならないので、4、5人でバイク隊を作って本社まで取りに行きました。これとは別に大きな問題は、お客さまに製品を届けたり試薬を届けたりという物流機能が寸断されちゃったので、どのようにして物流を確保するかでした。神戸は結構交通の大動脈が通る所なので、随分社員たちが色々と知恵を出し合って、日本海回りで運べないかとかね、工夫をしました。とにかく、検査の試薬が滞ると検査ができない、医療が止まっちゃう世界なんでね。これは社会的責任として確実にやらなきゃならないと、随分社員が頑張ってくれて、結果として滞りなく運べました。
―――当時を知る社員のみなさんは、毎年1月17日を迎えますと「あの時は...」みたいな話になりますか?
そうですね。もう随分と時間が経ちましたけれど、私たち神戸の人間にとっては非常にショッキングな出来事でしたし、大きなダメージでしたからね。当時は本当に大変は大変でしたけれども、結束力ができましたね。震災の年に大証で上場して、次の年に東証に上場したのですが、みなさん労いの言葉をかけてくれました。「大変な時によく上場を実現されましたね」と。意地じゃないですけども、こんな時に「やっぱりきちっとやらないと」ということがありましたね。
―――神戸の企業のみなさんの励みになれば、という思いもありましたか?
そうですね。神戸全体をどう元気にするかという話は、ひとつその時の大きな課題でしたからね。うしろ向きの話はいっぱいありましたから、それをどう前を向いていくかという話は結構大事だと思っていましたね。
大きな決断は「グローバル化」への舵を切ったこと
―――37歳でいまの会社に入られて、そこから取締役、社長へと進まれて、これまでで一番大きな決断は何でしょうか?
ひとつはやはり、どのようにしてグローバル化していくかという判断ですかね。ヨーロッパでは直接、代理店を買収することをやりました。ちょうどユーロ経済圏ができた頃です。そういった外部環境も随分大きくて、良いタイミングで色々なことができました。その判断の結果として、いま、直販サービスのネットワークが世界中にできているということですね。
―――いまや海外の比率が8割以上を占めるようになりましたね。
以前の私どもの仕事の仕方は「機械を売って、試薬を売って」という感じだったけれども、それをトータルとして。私たちは「トータルソリューション」という言い方をしていますが、ビジネスは単に「何か物を売る」だけではなく、お客さまに「どのようにして価値を提供できるか」というところが大事だと考えています。お客さまには現状どんな問題があるのか、あるいはどういうような効果を出していけるかなどをよく考えないと駄目なわけです。
「これがほしかった」と言ってもらえる製品を作れ!
―――ここまで業績を伸ばした成功の秘訣は何ですか?
お客さまから聞いた話を実現するのは、当たり前なんですね。そうではなくて、一体そのお客さまは「何に困っていらっしゃるのか」を考えることが大事なんです。私は社員たちにいつも言っています、「お客さまから『これがほしかったんだ』と言ってもらえるようなものを作れ」とね。
―――なるほど。困り事を解決してくれるようなものですね?
お客さまが考えていたけれども、自分ではちゃんとした絵が描けないと。そんな時こそ私どもが「こんなのをほしいと思っているんじゃないですか?」と提供できたらすごく幸せだと思うんです。単にお客さまが「これをこうしなさい」とか「これをもっとこうしてください」というのを実現するだけなら、お客さまにしてみれば「これは自分が言ったことじゃないか」となりますよね。これではお客さまにとっては、できて当然のレベルです。そうではなくて、常に次の一手を考えてどう知恵を出すかというのが大事なんです。
経営で大事なのは「イマジネーション」と「好奇心」
―――先を読んで提案をするということですね?
色々な知恵の出し方があると思います。だから、いまから社会はどのように変わるんだろうということですよね。その手がかりはいま、実は身近に結構あるんですよ。周りをよく見ているとね、大きく社会が変わる手がかりというのはきっとあります。例えば、スマホができた時なんてすごいと思いましたよね。コンピューターが小さくなったようなものですから。経営で大事なことは、イマジネーションをどう湧かすかという話です。もうひとつはどう好奇心を持つかということですね。「これは新しい」「これ、何か面白いね」と。そういう好奇心を忘れたら駄目です。
―――イマジネーションと好奇心が大切だと?
次はどうなるのだろう?とね。だから私がとても幸運だったのは、色々な良いタイミングでうまく変われることができたことだと思っています。例えば、今回の新型コロナのいわゆるパンデミックが終わると、きっといまとは違う世の中に変わるじゃないですか。これは何か必ずチャンスがありますよ。それを我々としてじっくり変化を見ながら、どう対応するのかというのが大事です。だからいまのスタートアップ企業には絶対チャンスがあると思いますよ。
リーダーは「ゴールをどう示せるか」が大事
―――経営者としての夢は?
いまはまさにサステナブル経営と言われるように、世の中の社会課題をどう解決するか、そういうことがひとつの企業の目標になっているのは間違いありませんし、サステナブル経営を意識した形での活動も必要だということですね。我々は「これだけ」という話ではなく、もうちょっと広く、どういう形で色々なサポートができるかが非常に大事になると思っています。だから「我々は何ができるんだ」と。カーボンニュートラルとか色々出てきていることに対して「我々はどういう形で貢献できるのか」と。そのために「どのように知恵を出さなきゃいけないのか」ということですよね。世の中の変化に応じてうまく変化できる会社であれば必ず成長し続けられると思っています。
―――最後に、家次会長兼社長にとってリーダーとは?
経営者にとって大事なことは「我々はこうなりたいんだ」ということを引き出していくことです。それにベクトルを合わせるということですね。そういう意味では、リーダーというのはやはり「ゴールをどう示せるか」というのが大事だと思っています。
■シスメックス 1963年、自動で血液中の成分を計る装置を日本で初めて実用化。
5年後、東亞医用電子を立ち上げる。1998年、現社名に。グループの従業員数は9700人。売上げは3000億円あまり。
■家次恒 1949年、2人兄弟の弟として大阪に生まれる。京都大学経済学部卒業後、1973年、三和銀行(現三菱UFJ銀行)入行。1986年、シスメックス取締役。専務などを経て1996年、社長。2013年、会長兼社長に就任。
※このインタビュー記事は、毎月第2日曜日のあさ5時40分から放送している「ザ・リーダー」をもとに再構成しました。
『ザ・リーダー』は、毎回ひとりのリーダーに焦点をあて、その人間像をインタビューや映像で描きだすドキュメンタリー番組。
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