約100年前、海の向こうに白球を追う日系人たちがいました。日系カナダ人で構成された『バンクーバー朝日軍』です。社会人野球リーグで優勝するなどファンも多かったといいますが、太平洋戦争で解散してしまいました。一体どんなチームだったのか。「朝日軍の功績を知ってもらいたい」と活動する、関係者の子孫を取材しました。

差別される移民たちの希望『バンクーバー朝日軍』

 滋賀県彦根市に住む松宮哲さん(77)。20年ほど前から、家族のルーツを調べています。
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 (松宮哲さん)「こちらが松宮外次郎、祖父です。“松宮商店”の1号店の前の写真です」

 祖父の松宮外治郎さん。1896年、出稼ぎのためカナダのバンクーバーに渡り、雑貨店や運送業を成功させ、商業組合のトップも務めました。

 1900年代初頭。外次郎さんのようにカナダへ渡った日本人は多く、最も多かった1907年には年間8000人を超えました。しかし、アジアからの移民への差別は激しく、排斥運動も起きました。

 そんななかで“ある野球チーム”が人々の希望になっていました。『バンクーバー朝日軍』。1914年、日系カナダ人らで結成されました。

 松宮さんの祖父・外次郎さんは、朝日軍の初代団長を務めていたといいます。

 (松宮哲さん)「(祖父が営む)松宮商店がバックアアップしていたようです。“団長”という朝日軍のトップなので、すごいなと思いました」

“日本流の野球”で優勝を重ね人気に

 朝日軍とは、どんなチームだったのか。JNNでは約30年前、当時の選手や関係者を取材していました。朝日軍に17歳で入団したケイ上西さん(当時72)。

 (ケイ上西さん ※当時の映像より)「野球の試合にはパウエル街(日本人街)の日本人の半分以上が来て応援してくれました。僕が(朝日軍の)1軍に入れるなんて夢にも思わなかった。僕が(試合に)出させてもらうのは、5点か6点か勝っているときだった」

 朝日軍は、体格差のある相手に対してバントや盗塁といった日本流の野球を展開。白人たちが参加する社会人リーグで優勝を重ね、人気を博しました。

 (朝日軍の元選手 エディ北川さん 当時93)「白人の応援者が多かったですよ。みんなが朝日軍を応援してくれました。(Qそれはどうして?)紳士的なベースボールをしていたからでしょう。フェアプレーです。ジェントルマンプレー」

「この国の生まれなのに敵のように扱われた」戦争で家も財産も奪われる

 しかし1941年。太平洋戦争が始まると風向きは一変します。日系カナダ人は『敵性外国人』とみなされ、全財産をカナダ政府に没収されました。遠く離れた収容所へ入ることを強いられ、朝日軍は消滅しました。

 (ケイ上西さん)「自分の家に帰れると思っていました。家も全部知らない間に売却されていた」

 (エディ北川さん)「私たちはこの国の生まれでしょう。カナダ人ですから。それなのに敵のように扱われて、私は憤慨しました」

 松宮さんの一家も財産を没収され収容所に入れられました。そして終戦後、日本に追放されました。

 (松宮哲さん)「(祖父も父も)どういうわけか(戦時中のことを)話さなかったです。自分らが受けた苦しみを伝えたくなかったのかもしれない。言いたくなかったのかもしれない。一番の苦労は、今まで築いてきたお店が無くなってしまうこと、これが一番苦痛だったと思います」

『朝日軍の功績をたたえ贈られたメダル』届けるべく元選手の親族を探す

 終戦から43年後の1988年。

 (マルルーニ首相 ※当時)「議会を代表して日系カナダ人に深くお詫びを申し上げる」

 カナダ政府は迫害政策を謝罪し、日系カナダ人らに金銭補償も行いました。

 2003年には朝日軍が人種差別のなかでもフェアプレーに徹した姿などが評価されて、カナダの野球殿堂入りを果たしました。その後、朝日軍の功績をたたえ、当時の選手ら74人にメダルが贈られました。
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 松宮さんらは、日本に帰国し所在の分からない元選手の親族を探し出し、これまで約15人にメダルを届けたといいます。

 (松宮哲さん)「祖父が『やれ』と言っているような気がするんです。栄光のシンボルで、子孫にとってはかけがえのない宝物になると思うので」

 メダルを渡せていないのはあと4人。松宮さんがいま調べているのが『ENDO』という選手です。現地の日系カナダ人向けの新聞記事から『円戸』と書くことが分かりました。移民の記録を調べたところ、『円戸彌市郎』という人物が和歌山県にあった下里村から、バンクーバーへ渡っていたと突き止めました。

 (松宮哲さん)「“first son”(長男)、カナダで生まれたのですが、『円戸しょうじ』か『まさじ』か『せいじ』か分かりませんが、おられたことが分かりますので」

 この円戸彌市郎さんの長男『正二』さんが、朝日軍のENDO選手ではないか。松宮さんは手がかりを求め和歌山県へ向かうことを決めました。

 (松宮哲さん)「不発になるかも分からないし、行ってみないと分からないけど、調べてみることが大切だと思います」

「ENDO選手」のルーツを探りに和歌山へ

 3月13日、松宮さんは下里村があった那智勝浦町の下里地区にいました。ENDO選手のルーツはここにあるのでしょうか。

 (松宮哲さん)「円戸『まさじ』か『しょうじ』か分からないですけど」
 (住民)「この方がご本人?」
 (松宮哲さん)「そうです。今ですと、109歳なんですよ」
 (住民)「『八尺鏡野』という地区に円戸さんが多いですよ」

 円戸の名字が特に多いという八尺鏡野地区に足を運びます。名字が円戸の人に実際に聞いてみると…

 (松宮哲さん)「たぶん明治生まれの方です」
 (円戸さん)「明治生まれ(の人)知らん」
 (松宮哲さん)「カナダや外国へ行っていたことはありますか?」
 (円戸さん)「それも知らんわ」

 別の円戸さんの家も訪ねました。

 (松宮哲さん)「円戸という名字の人を訪ねています」
 (円戸さん)「もうお父さんは亡くなっている」
 (松宮哲さん)「カナダに行っていたことは?」
 (円戸さん)「聞いたことないね」

 (住民)「『円戸きよし』は私の親戚やけどそんな話は…(カナダとのつながりが)あったら聞いたんやろうけど。『カナダにもおったんや』とか。僕は母親がシアトル生まれで、もう1人の親戚はブラジルに今おります」
 (松宮哲さん)「この辺は移民が多いんですか?」
 (住民)「移民は多いですよ」

 7時間探し回りましたが、ENDO選手の手がかりは掴めませんでした。

 (松宮哲さん)「来てよかったです。結果的に分からなかったけど、『分からない』ことも1つの情報。最終的に見つかるまで続けたいと思っています」

「今後もつながっていくと確信めいたものを感じた」

 3月17日、松宮さんは東京にいました。朝日軍の親族や関係者が集まる親睦会が開かれたのです。

 その中には、カナダからやってきた子どもたちがいました。朝日軍結成から100周年となる2014年、その流れを汲んだ少年野球チームがバンクーバーで結成され活動を続けています。今回、親善試合のため来日しました。
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 (松宮哲さん)「試合はどうでした?」
 (選手)「勝ちました」
 (松宮哲さん)「スコアは?」
 (選手)「15…」
 (松宮哲さん)「すごい!強いな!」
 (選手)「ありがとうございます」

 (松宮哲さん)「祖父がすごく喜んでいると思います。今後もつながっていくんだと確信めいたものを感じましたので、わくわくする1日でしたね」

 時代の渦に翻弄され、一度は姿を消したバンクーバー朝日軍。その伝統はこれからも子どもたちへと受け継がれていきます。